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リッこら

Re:ALL製作委員会は一枚岩ではありません。日々委員どうしが小首を傾げ合いながら 冊子を作っています。彼らは一枚岩というよりはむしろ、ガラクタの山のようです。どんなガラクタが埋まっているのか。とにかく委員それぞれが好きなものを書きたいということで始めたコラム、気が向いたら読んでやって下さい。ひょっとしたら、使えるガラクタがあるかもしれません。

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幸福は一夜遅れてくる

春になって、西に住む友達が東京に出てくると聞いて、6年ぶりの再会を果たした。久しぶりの対面にはやはり緊張した。。変わっていないだろうか、不良になっていないだろうか、送信ボタン一つで簡単に連絡の取れるこの時代に、メールアドレスのわからない彼女への連絡方法は、卒業式の日に貰ったそれぞれの住所一覧をあてに書いた手紙だけであり、返ってきた手紙の少し癖のある字をみても、彼女の様子はちっとも伺いしれなかったのである。しかし実際にあってみると、姿かたちに変化はあれど笑顔がやはり彼女そのものだった。

今から6年前、なんともここからはすっかり離れた南国の地で、配られた卒業冊子なるものの最終ページには、女子学生特有のまるまるとした字で太く、黒く<みんなNo.1!!>と書かれていた。クラスの一部の人の発案に始まったその企画は、当人たちの手によって、どんな分野であれクラスメイト各々の一番が発掘され、卒業冊子という場を借りて、皆の目にさらされたのである。彼女のNo.1はといえば、まさに「笑顔No.1」。明るいキャラクターで、よく笑う溌剌とした子として、皆から親しまれていた。誰だって簡単に作れるはずの「笑顔」で一位を取れるなんていうのは、当時の私にせよ今の私にせよ本当に流石H子だなあというためいきしか漏れない。私はといえば、決して忘れはしない、「勉強熱心No.1」の称号を頂いたのである……このことは思いだす度になんとも言えず苦笑してしまう。いかにもガリ勉そうだけど、才能はともなってないのよね、との声が聞こえるようである。何をやっても駄目な私の、切ない人生を決定づけるようなエピソードだ。頑張っているように見えるなら、頭の良さNo.1にしてくれればいいのに。熱心て……………。

ずらずらと書かれた一覧には様々な語彙が踊る、「百人一首No.1」「読書No.1」「おもしろさNo.1」・・・。数々のポジティヴな印象の語句の中で、自分のだけが異彩を放っているように見え、同じような人が居ないか一覧表とにらめっこしていた。

そういえば、一人だけ同じような人が居た。「静けさNo.1」。そもそも、静けさの価値は人により違う。「頭の良さ」や「足の速さ」などのように、手放しにプラスの事だとは喜べない複雑さをこの言葉もまた、持っている。この一覧を作った彼らが、静けさに価値を感じているとは到底思えなかったのだが、この称号にうけた彼はどう思ったのだろうか。私はこのNo.1一覧の件を経て、卒業式という別れの日に、彼に妙な仲間意識を抱き、以来心の中で彼を「静けさ」と呼んだ。在学中に私が彼とした会話はほとんどないが、トウキョウに戻ってきてから私達は同じ沿線に住んでいるようで、卒業後も電車の中でふと彼が本をよんでいるところをみかけるようになった。静けさは寡黙ではあったが、まったく喋らなかったわけでもなく、トウキョウで初めて会った日は互いに感動してよく話した。至って自然にしゃべった。いつだったか、静けさが電車内で分厚い本を読んでいた。
―面白いのそれ?
―面白くない。でも、幸福は一夜遅れてくる、と思っちゃって諦められなくて、なんだかんだ半分まで読んだ。
―幸福は一夜遅れてくる?
―うん。幸福を待って待って、とうとう堪え切れずに家を飛び出してしまって、 そのあくる日に、素晴らしい幸福の知らせが、捨てた家を訪れたが、 もうおそかった。それと同じように、僕が読むのを辞めた、その直後の文章から面白くなるんじゃないかと・・・

そう話したのを最後に、路線を変えたのか、静けさとはめっきり会わなくなった。別に彼に特別な感情があるわけでもないが、どうも気になって前に静けさが下りた駅で待ってみたことがある。そうしたらいくら待ってもやはり来ない、しかしこの次は来る、この次は来るはずと思っているうちに22時になり、一体私は何をしていたんだかと呆れたばかりだったが、私が帰った直後に到着した電車にちょうど彼が乗っていたような、そんな気がどうもする。そんな時不意に「幸福は一夜遅れてくる」という言葉が聞こえてきて、その時初めてなるほどと思った。「勉強熱心」な私は、この言葉の出典との再会を後々ちゃんと果たしたのであるが、私は出会った言葉をあんな風に貯め、活かすことが出来るだろうか。静けさの向こう側にはきっと言葉のタンクがあって、何かの瞬間が訪れると、そこにたまった水をゆっくりと汲みだしているような気がする。静けさを埋めるように動く世の中で、静けさの内に貯めた言葉と同時に、新たな言葉が湧き水の様に溢れ出るのではと楽しみにしたりする。

そうだ、H子の話をしていた。よく考えたらなぜ笑顔の人気者が、勉強熱心なんかと仲良くしているのだろうか?思い出す。プールサイドにあった傘のある電灯を見てキノコだと笑いあっていたのを思い出す。西出身のなまりのある発音を思いい出す。
―あんためっちゃのりいいな!
―糊??
―ちがう!ノリ!

あくまで勉強「熱心」に過ぎない私は、貯めた言葉のタンクにほとんど蓋をして、いざ使わんとした時には気圧で蓋が開かない!みたいな感じだろうか。そしてそれを補えるような明るさも、笑顔も持ち合わせていない。春の夜の都心で、夜であって夜ではないように明るい電飾の町で、H子が不意に言い放った「あんた、変わってないな!!」の言葉に安堵しつつ、苦笑を漏らした。底抜けに明るいH子のようにも、言葉を知る静けさのようにもなれない私は、明日は来るだろう幸福や芽生える才能を信じて今日もまた眠る。幸福は一生来ないとわかっていながら。などと、何事にも勉強熱心な私は今日も大真面目に、何の解決にもならない事を延々と考えるのである。

出典:太宰治『女生徒』
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ズレる

ああ、眠れない。眠れない。寝たい!眠たい!スターのDX。
いつでもどこでも寝ていたいことで有名な私でも、夜中になっても眠れない時がたまにある。
そろそろ寝ないといけないのに眠れない。そのプレッシャーからか余計に眠れなくなってしまう。
そんな時は、なんだか難しい事を考えて眠たくなるようにしている。
例えば、「文化構想学部って何をやっているのか」とか。
とても難しい。ムイムイ難しい。難しいッシモ。
とりあえず「王様の新しい服を着て、幸せの青い鳥を捜しています」とかわしてみる。ぺらっぺらな質問に見合った、張りぼての回答である。
しかし、文構はよく「あそぶんこう」なんて揶揄されるが、そもそも文化というものは形骸化された遊びに他ならないのではないだろうか。遊びこそが文化の構想の知のフロンティアなのだ。とかカッコつけてレポートが書けそうだ。
そんなものは遊びであって勉強ではないと聞こえてきそうである。
でも待てよ、そもそも勉強とはなんなのか。一般的に勉強というと、教科書とノートを使ったあのアレだろうか。黒板に書かれたことをただひたすらノートに転写するアレ。
そういえば大学に入ってから、ほとんどノートというものをとらなくなった。学期初めに鉛筆を持とうとして、持ち方を忘れた、なんてバカ話を聞くが、まことやその比喩が分からないでもないくらいである。
しかし最近は再びノートを意識してとるようにしている。すると、自分がノートをとるのが下手くそだったことを思い出した。ぜんぜん綺麗に書けない。消しては書き直して授業に追いつかない。極めつけに大量の消しカスが発生する。
筆圧が濃いからか、消し方に無駄があるのか、昔から消しカスの多い人間だった。書くときは適当なくせに、見直すときは無駄に完璧主義なせいで、字が下手だから書き直したり、バランスの美しさのために一行全部消してずらして書き直したりする。そしてその結果、いつも大量の消しカスが発生する。
この消しカスこそが勉強なのだと思ったりする。
そんなものはゴミであって勉強ではないと聞こえてきそうである。
思うにタブレット電子書籍がいまいち軌道に乗れていないと感じられるのは、タブレットを使ってノートをとることが普及していないからではないかだろうか。
文化は一方的に受容されるだけでは発展しない。利用者からも発信されるようになった時、文化は軌道に乗って発展を遂げる。インターネットが現在の興隆を見たのも、あるいは写真や、音楽や、そして本だってそうだったはずである。本が、いや書くということが発展したのは、数多くの消しカスが発生したからだと思っている。もちろん昔はインクや墨汁を使っていたから、消しカスは出なかっただろうけど。
中世に書かれた写本を見ていると、整然と並んだ美しい文字に軽く感動する。そういう写本に見とれていると、昔の人はさぞかし慎重に丁寧に文字を書いていたのだろうと思う。
当時の人と比べると今日の私たちはミスし放題だ。ctrl+zの時代である。ctrl+cとctrl+vで論文が書ける時代である。おい、なにをするやめろ。
それはさておき、昔と比べると我々なんぞ人間のクズに違いない。
いや、きっと人間のカスだ。人間のバカだ。人間のクソ野郎。この人間め。
あれ、人間批判になってしまった。
ともかく、昔の人の丁寧さを目の当たりにしたら、今の私たちはクズになってしまった気がするのである。
いや、違う。ここまで言っておいて、そうじゃない気がしてくる。きっと、昔は昔でクズがいたはずである。人間の6割は水である。そして、水は低きに流れる。
現存している至極丁寧な写本。これを描いていた人の中にも、きっと、自分と同じクズみたいな人間がいたに違いないのだ。
厳粛な作業場の中で、誰かインクをぶち撒いてしまう奴がいて、そのせいで200枚くらいの完成していたページが真っ黒になる。半泣きになりながらレッドブル飲んで徹夜で再現する。無駄にした紙を補填するために、「まぁ、バレないっしょ」とか言いながら他の部署からちょっとずつ紙をパクってくる。
うん。絶対にやってる。目に浮かんでくる。圧倒的脳内再生率である。お前は見たのかとツッコまれそうだけど、見てはいない。
いや、見れるわけがない。何千年も前のことである。時間は不可逆なのだ。時間は過去から未来へ流れるのだ。
いや、そうでもない。
過去は現在の結果に過ぎない。未来からやって来た時間が自分の目の前で現在を通り過ぎて過去になる。時間は未来から過去へ流れているのだ。
時間が逆走する。
もしかしたら時間は丸いのではないかと思う。何を言っているんだと思われているだろうが、自分でも意味が解っていない。ただなんとなく漠然と、時間をひたすら進み続けると一周回って帰って来れるのではないか、なんて時間球体説らしきものを考えてみる。明日だって昨日の今日なのだ。ついでに時間は回っているのではないかと、その先の時間地動説みたいなものまで考えてみる。もちろんそんなもの確かめようがない。
結局のところ、我々は、昨日でもなく明日でもなく「いま」を「生きている」だけである。だから「居間」のことを「リビング」と言うのである。
なんだか話が明後日の方へ行ってしまった。頭を使っていたらお腹が空いてきた。眠れない夜の更なる敵は空腹である。いっそのこと食べて満腹になって睡眠に誘えばいいという考えと、こんな時間から食べたら生活リズムの狂いに拍車をかけて明日以降さらに大変なことになるという考えで揺れる。夜食を食べるか食べないか。私の中で意見が飛び交う。
「食べればいいやん。夜食しぃや」
「あかんで食べたら。絶対夜食すんな」
「夜食しぃや」「夜食すんな」「しぃや」「すんな」しーや。すんな。シーア。スンナ。
あらー、やめて!私、ノーと言えないイエスだから。
そうこうしているうちにシーア派は夜食を食べだす。ぱくぱくと食べる。ぱくぱくと食べるが一向にもぐもぐしないので、影に手を伸ばしてもただひたすら空を切るように、私は何だか騙されているような気分になった。
それでも食べているのを見ていると、自分も何か食べたくなってきたので、何があるのだろうかと厨房を覗く。揚げたメンチカツを切ってお皿に盛りつけている。
店員がカツアゲしてる。メンチ切ってる。私はこんな物騒な所にいていられないと走り去る。
一目散に走りながらふと、走るという行為がすごく不思議に思えてきた。
片方の足で地面を踏みつける行為の繰り返しで、つまりは、必殺地球キック百連発状態なのだ。世界中の人がこんなことをしたら、地球の自転に影響を与えるのではないかとすら思えてしまう。それでも地球は回ってる。
走っている時には何の混乱もなく走れているが、冷静に考えてみるととてつもなく難解で、振り出した片足を置くや否や、もう片方の足を振り出し置くや否や、もう片方は前に振り出され、というように、永遠のステップの繰り返しである。
だから、足は置いているというより添えている感じで、それはリアルステップというより、ファントムステップで、このファントムステップの連続で自分が直立できているんだと思うと、もはや小周期でジャンプしているのか、小周期で地面に着陸しているのか分からなくなって、気を引き締めないとこのまま飛んで行ってしまう気がして、頑張って気を引き締めていたのだけれど、不意に上空に核ミサイルが見えたので、気をそらしてしまった私は青空へ飛んで行ってしまった。ただし、空気抵抗は考えないものとする。
ふもとで核爆弾が爆発する。
芸術は爆発だ。
壮絶な景色を前にグリーングリーンが聴こえる。グリーン グリーン 青空には きのこ雲あがり。グリーン グリーン 丘の上には ララ 骨組み残る。
うーん。ダメ、ゼッタイ。核兵器乱用。
それにしても「みらい」のエネルギーが「げんし」力とは言い得て妙である。第四次世界大戦は石と棍棒によって戦われるのだ。創造は破壊の上につくられる。
等速直線運動を続けて大気圏を飛び出し宇宙空間に出た私は、ブラックホールに吸い込まれる。終わりであり始まり。永遠の一瞬。時空が歪む。物理法則が破綻する。ロゴスから解放される。
ル・コルビュジエな私の心は冷たい音で崩れ落ちる。光が止まるその前に、リンクとループで大脱走。ハートとビートがハイタッチ。深まるトリック。連なるトリップ。空前絶後のメルトダウン。
ズレる。ズれル。ずレル。

――目が覚めた。夢だったのか。
知らない間に寝オチしてしまったようだ。ついでに、寝オチから夢オチしてしまったようだ。
このまま二度寝して自分の夢を追いかけてみようかな。
今日が過ぎていく。さやさやと過ぎていく。

(先山周)

そこに在るべくして在る時間、居るべくして居る人

屈託のない青春像、知らず知らずのうちに追っちゃっていませんか?どーも、追っちゃってる人こと植田です。毎朝6時半に起きて駆け足で最寄駅に向かっていく生活から離れて約一年。夜の世界の楽しさ(in my room)を知り、「あれ?夜中に映画観たり本読んだりするのってすっごい有意義じゃん!」の精神に貫かれた生活を送りがちになっている2015年初夏でありますが、ときどき「もし高校生活がもう一年あったらどうなってたんだろう」と考えてしまいます。もちろん、生活習慣というのは周りの環境によって左右されますから、もう一年高校生活が伸びていても早起きであったとは思います。しかし増えた一年で何が起こっていたでしょう、仮に今の大学一年生の奔放さで高校をもう一年過ごしていたらヤンクミが何人出動しなければならなかったでしょうか。
 いろんな妄想が広がりますが、事実僕は大学生であり良くも悪くも戻れない過去として、思い出すことしか許してくれない過去として高校生活は僕の記憶の中に存在しているのです。嫌だったこともつらかったこともあったはずなのに都合よく、部分的に軽くモザイクを入れた具合に美化されてしまう。辞書で引いた意味のまんまの懐古主義です。
 ところで青春モノと呼ばれる作品群の中には高い確率で「女の子」が登場します。それもとびっきり可愛くて、物憂げな一面も少しあって、もう無敵なカンジの。ベースボールベアーや岡村靖幸の曲にも夏目漱石や武者小路実篤の作品にも。各時代のアイドルグループだって結局変態的な男子の願いを叶えるという側面で機能している部分もあると思います。
 それっぽいドラマチック展開で付き合うことが高校生の中で美しいとされているのなら、そんな高校生の美しい流れにきれいな形で乗った石井君に登場していただきたく思います。彼は僕が大学に入ってすぐ知り合った語学のクラスが一緒の友人なのですが、僕たちが知り合う少し前に高校のクラスメイトと付き合ったそうです。そのクラスメイトはもともと別に好きな人がいて、石井君はそもそもはそのことについての相談役として話していたそうなのですが、親身に話を聞いてくれる彼に惹かれたのか付き合いはじめたそうです。登場してもらって早々、申し訳ないとは思っているのですが彼が別れてしまったことをお伝えします。一年経ったか経たないかくらいだったそうです。僕は彼と一年一緒に過ごしてきて、彼が授業の中で観た『猟奇的な彼女』の後半部分、女子勢の感涙レースでフライングさながら、誰よりも早く嗚咽を漏らして泣き始めるほど感受性が鋭く、涙腺が弱いことを知っていたので、また、たびたび彼との会話の中でナチュラルに彼女の話が出てくるので、これから彼がどれほど悲しむんだろう、大丈夫かなあと思っていたのですがその別れた、という報告をされた後はその一部始終を意外にも淡々と他人事のように語っているので少し安心しました。ただ、そのあとの会話の中で一つだけ気になったのが「もう近くにいる人が離れて行ってしまうのが怖い」という言葉です。直接彼のこの言葉を耳にしたとき、それはとんでもなく現実性を帯びたものとして僕の頭の中に入ってきました。
大学生になった今まで僕たちは何らかの形で誰かに別れを告げたり、告げられたり、告げあったりしてきました。もしかしたら「サヨナラ」という言葉すらなく、つながりをいきなり断ち切られるような別れをした方もいるかもしれません。吉本ばななの『キッチン』には死というかたちで別れが登場してきますし、サン=テグジュペリの『星の王子さま』には旅をする必然として別れが出てきます。世に遍く存在している別れは何かしらの意味を持ちうるものです。石井君は怖いという感情でそれを捉え、僕はそれに深く共感しました。
 モラトリアムまっただ中、今から大学を卒業するまでにどんな別れがあるかは予知できません。振り返ってやっと掴めたような気になる、大人という像。本当にあるかどうかすらわからない大人になりたくて、コーヒーばかり飲んでよくおなかを壊していた高校生だった僕はいつもよりは元気のない石井君にこれからの物事が全てうまくいくような言葉をかけてあげることもできずに、ただ一緒になんとなく座っていました。

 植田康平

セ・リーグ

この記事を書いている時期は4月の下旬なのだが、僕自身はこの記事が2015年中に公開されるならば、5月であれ6月であれ自然と受け取っていただけると信じている。一体何を、か。それはタイトルの通り、今年のプロ野球、セ・リーグの面白さだ。
さて、失礼を承知で書かねばならないが、日本のプロ野球の歴史のほとんどはセ・リーグが作り上げてきた。王貞治の本塁打記録、巨人のV9、江川―小林の伝説のトレード、巨人阪神伝統の一戦……。ゴールデンタイムには巨人戦が放映され、野球人気はセ・リーグが、特に巨人が独占し続けてきたと言っても良いだろう。けれど、パ・リーグがセ・リーグの影に隠れていたかというとそう言う事ではなく、パ・リーグは各球団の実力が均衡しており、圧倒的に巨人の優勝回数が多いセ・リーグとはまた別の楽しみ方をすることが出来た。いつの日からか人気のセ、実力のパ、と呼ばれ始め、とりわけ90年代から10年代にかけて、ダルビッシュ、田中、大谷と言った大投手がパ・リーグから生まれた。
セ・リーグにもう一度戻ると、ここ十年、巨人6回、中日3回、阪神1回という事実上の巨人・中日二強時代が続いており、シーズン序盤に優勝が殆ど決定してしまうことも多かった。だが、である。今年、セ・リーグには異変が起きている。4月を終わってどの球団も均衡した戦いを続けているのである。
そしてこの均衡した戦い、が平凡なチームが六つ集まったから起こったわけではなく、どの球団も自らの強みと弱点を併せ持っているからこそ、見ていて面白いシーズンが展開されているのだ。
まず一位の東京ヤクルト(ゲーム差-)。去年、バレンティン・山田・雄平・畠山・川端の5選手が10本以上の本塁打を記録した反面、投手陣は怪我に苦しみ、救援陣が崩壊していた。まさに最強の矛と脆い盾のチームだったのだが、今年は投打のバランスが逆転。チーム防御率はリーグ最高の1.81(4/30現在、以下省略)である。バレンティンが故障し、山田や雄平が打率を残せていないなど打撃では不安があるが、投手力で勝てるゲームを確実に取っている。
そしてヤクルトと同率一位(ゲーム差-)につけるのが巨人。チーム打率はリーグ四位の.242、チーム防御率はリーグ三位の2.67、さらに亀井や坂本、阿部の故障、村田や長野の不振もあり、スタメンをやりくりしながら進めているが、優勝経験豊富なチームの指揮官・原辰徳によって着実に勝利を積み上げている。かつての巨人といえば、ホームランバッターを並べてどこからでもホームランが飛びだす空中戦が代名詞だったが、今年は小技を繋げる野球を繰り広げている。
続いて三位は横浜DeNAベイスターズ(ゲーム差1)。筒香、梶谷が本格的に覚醒し、中軸を打ち、首位打者を走っている石川を一番打者に置いている。さらにはバルディリス、ロペスの外国人コンビも若いプレイヤーたちを中軸以降から支えている。チーム打率はリーグ二位の.260、チーム防御率はリーグ六位3.82。典型的な打のチームである。しかしながら、中畑氏就任前のベイスターズは最下位の常連球団であり、昨年や二年前も上手く勝ち星を掴めていない感じがあった。去年大量戦力外を通達し、投手陣の入れ替えを敢行した。その成果は中継ぎの安定という形で徐々に出始めている。打撃をこのままの調子で続け、不安定な先発陣がゲームを確実に作れるようになれば、DeNAとなって初のクライマックスシーズン進出も夢ではない。
四位は中日(ゲーム差0)である。元々中継ぎ陣には定評があり、チーム防御率はリーグ三位の2.67。中継ぎのエースである浅尾も帰ってきて、去年新人王候補である福谷、又吉の活躍に加えて、田島が覚醒した感じもある。エース吉見の復活、去年投手陣を支えた大野と先発にも大黒柱が整っている。そして、老年化が心配された打撃陣であるが、10年目の福田が開花、ソフトバンクから移籍した亀澤、そして昨年から好調の大野と、あっという間に世代交代をしてしまった。チーム打率はリーグ一位の.264。ここからの巻き返しは十分にあり得る。
五位の阪神(ゲーム差1.5)は、チーム打率がリーグ最下位の.234、防御率はリーグ五位の3.78である。セットアッパーの福原、抑えのオ・スンファンと勝ちパターンに入ればリーグ最強なのだが、先発陣と打者陣が上手く噛み合っていない。加えて、マートンやメッセンジャーなど外国人がチーム内に火種を持ち込んでおり、不安要素は絶えない。ただ、昨年二位の勝負強さは夏以降現れてくるであろうし、優勝戦線に絡まないはずがない。
最後に現在の最下位である広島。防御率はヤクルトに次ぐ2.33であるが、チーム打率はリーグ三位の.242 と打撃が燻っている。しかし、実はチーム打率自体は一位の巨人と同じ数値であるため、むしろ防御率の差でもっと上に行ってもいいはずである。大瀬良が九回一失点で負けになり、前田、黒田、といった好調の先発陣の活躍に打者が報いることが出来ていない。打撃の不振はオープン戦の頃からも言われているが、緒方監督自身がこの現状にメスを入れることが出来ていない。ただ、投手陣は救援も含めてリーグ屈指。勝利の哲学を知った時、広島の上昇は始まるだろう。

さて、このように見てきたが、もう一つタイトル争いも熱い。実はここ五年以上セ・リーグのホームラン王は全て外国人選手が握っているのだ。しかし、今年はここまで筒香(DeNA)がロペス(同)と並んでホームランダービーのトップを走っている。投手では、防御率のトップ15が全て2点代だ。誰が最優秀防御率を握るのか。まだまだ分からない。とりわけルーキー高木勇人(巨人)は防御率1.50、勝利4と新人王、最多勝利、最優秀防御率、他にも様々な投手タイトルを独占できるかもしれない逸材である。

僕自身保育園時代からの巨人ファンであるし、好きな球団の試合を見て、応援をし続けることが野球の醍醐味であると思う。だが、今年はセ・リーグ六球団の全てが“面白い”。ひいきの球団を応援しながら、たまには普段はライバルとなっているチームの試合を見てはいかがだろうか。そこには、新たな野球の面白さ、セ・リーグの可能性が眠っている。

心臓から母親、紅さ

生々しい夢を見た。私は手を前に差し出して、どくどく脈打つ心臓を受け取った。ただ、それだけの夢。起きた時、変な汗をびっしょりかいていた。寝る直前に金曜ロードショーの寄生獣を見たのがまずかった。ミギーはかわいいけど、ただただ気持ち悪さだけが後を引いたらしい。

気になったので「心臓の夢見」についてGoogle先生に尋ねてみた。なんでも、内臓に関する夢は病気、財産、家族、内面などの象徴だという。内臓を治療したり手術したりする夢は、身体や精神的な病気と闘っていることを示し、内臓を洗う夢は、洗っている内臓に問題を抱え、回復させたいという願いを暗示しているらしい。まず内臓を洗う、という想像ができるだけで天才だと思うのだが。

「身体の外側にある内臓の夢」がなかなかアツかった。「取り出す」か「取り出される」かの違いで意味が大きく異なる。心臓を取り出す、または食べる夢は、親密な関係を暗示する。一方、心臓を取り出される、もしくは止まる夢は、トラブルに巻き込まれて事故に遭うことを警告する夢だそう。私の夢はたぶん後者だろう。わが身に危険が及んだ際、神さまのご加護があるようにと「一日一善」をモットーに日々つつましく暮らしているが、一善どころか十善でも危険そうで怖い。そうか、丸善か。なるほど。

言わずもがな、命を削る上で大切な器官である「心臓」。そんな「心臓」の意味を持つ世界中の言葉は、さまざまな意味を兼ね備えている場合が多い。例えば、江國香織、辻仁成による二冊構成の恋愛小説「冷静と情熱のあいだ」のイタリア語訳は「Calmi Cuori Appasionati」。順に、冷静、心、情熱という意味である(注1)。そして「Cuori」には、心とは別に「思い遣り」という意味もある。タイトルの中に冷静と情熱の間にあるべき存在を忍ばせている。物語の舞台である、イタリアの言葉で。

スペイン語もまた然り。心臓はスペイン語で「Corazón」という。某海賊漫画のファンにとっては非常にタイムリーな名前であり、この名前を涙なしに目にすることはできないだろう(筆者の主観)。意味は身体器官の心臓、トランプのハート、揺れ動く感情。口を開いてしまうときりがないが、尾田さんの伏線回収の上手さが際立つ命名なのだ(筆者の主観)。

英語の「心臓」は「heart」。「To eat one's heart out」という語句がある。直訳すると「心臓を食べる」。この語句は、あることわざを表している。

晋の武将桓温が船で蜀に攻め入ろうとして三峡を渡ったとき、その従者が猿の子を捕らえて船に乗せた。母親の猿は泣き悲しみ、連れ去られた子猿の後を百余里あまりも追った。ついに母猿は船に飛び移ったが、そのままもだえ死んでしまった。母猿のはらわたを割いてみると、腸がずたずたにちぎれていた。

『世説新語・黜免』の故事の一つ。あることわざとは「断腸の思い」。それを英語では「心臓を食べられた」と表現する(注2)。夢見の内容と重なる部分があるのは偶然にしても、母猿の身体を駆け巡る感情の激しさが痛いほどに伝わる意訳であろう。この世で、この世界で、最も尊いもの。もちろんそれは、カリフォルニアオレンジジュースであったり、ふくらはぎの筋肉であったり、人それぞれだろう。私は、それがお金と母親から貰い受けた愛情だと思っている。この母猿の死に様からもわかるだろう。母の愛とはなんと深く、絶対的なものか。

絶対的。この言葉がするりと吐息のように出てくるのは、ビルの上から等加速度運動している人か、冷たい海にまっすぐ進んでいける人か、錦糸町駅ホームから迷いのない目で線路を眺める人くらいだろう。苦痛をものともせず、脈打つ心臓を投げ出す覚悟を持ってしまった人。それでも、黙っていても何かしら流動していくこの世界で、母の愛は絶対的だと思う。知識も、能力も、髪も眉毛もない涎まみれの赤ん坊にとって、それは奇跡的に確かな指針である。

初めて酸素を体内に取り入れたとき既に、体には紅い血が流れていた。同時にあたたかい何かに包まれていた。血流の物理的な温かさとは違う、目に見えない何か。そのあたたかさの影響なくして物事を捉えるのは不可能だと思う。世界中のどの国でも、どの哺乳類でも、どの花にも、母親から分け与えられた血(らしい存在)、その流れを伝う愛があるはず。

だから体中を巡る血は紅く、巡り巡った血が辿り着く心臓もきっと紅く、たぶん、愛情も紅い。紅さの輪ですべて繋がっている。母の日のカーネーション、買いに行かなきゃ。

(注1)気ままなひとこと(http://blog.goo.ne.jp/shikohra/e/4fd3922268f59be3587a0049305ada95
(注2)断腸の思い‐故事ことわざ辞典(http://kotowaza-allguide.com/ta/dantyounoomoi.html

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