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リッこら

Re:ALL製作委員会は一枚岩ではありません。日々委員どうしが小首を傾げ合いながら 冊子を作っています。彼らは一枚岩というよりはむしろ、ガラクタの山のようです。どんなガラクタが埋まっているのか。とにかく委員それぞれが好きなものを書きたいということで始めたコラム、気が向いたら読んでやって下さい。ひょっとしたら、使えるガラクタがあるかもしれません。

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最後のワルツ

11月の下旬から3日間京都旅行に行っていたので、コラムには自慢がてらその時のお話を書いてやろうとばかり思っていましたが、なんともまあ文章にするには掴み所のない旅行旅でした。二日目の夜、念願の鴨川沿いでの食事を終えた私の目に、偶然に飛び込んできたのはある写真家の展覧会の看板でした。あ、この写真は!!と思い、気がつけば三日目のかのに予定していた、有名な伏見稲荷へ行く計画を返上し、家族と別行動をとってこの展覧会を見ることにしたのでありました。本物を見るのは滅多にない機会だし、伏見稲荷は逃げないけど、展覧会は少し経ったら一時的で逃げていくものだからいいよね!と。しかし展覧会に来て実際に写真を見てふと気付きました。
「あれ?そういえば写真って本物もくそもなくない?」
そうです、写真はいくらでも複製され得うべきもの。つまり展示されているものも、立ち読みした本に乗っていた載っていた写真も、展示されていたた写真も本物であり偽物なのです。
そこで、その展覧会は今回の展示にどう意味を持たせたかというと、「写真家本人の直筆サイン入りでスペシャルプリントされた写真を展示している」としていました。なるほど、どの写真にも右下にサインが入っていました。しかしそれは写真という芸術作品の価値をあげる訳ではないように思われます。サインが入っていようがいまいが、その作品にはかわりはないですから。つまりその展覧会で見なくても、「本物」を見ることは可能だったのです。

では私が支払った観覧料800円と、伏見稲荷という犠牲は無駄になったでしょうか?答えはNOです。
確かに、「写真」という複製技術の芸術のなかには唯一無二の作品が持つような圧倒的な威力はありません。「本物」がいくらでもあるからです。しかしだからこそ、写真などの複製技術の展示を観覧することは、それらの何枚もある「本物」が今回の展示ではいかに整理され、配置されているかという「展示的な価値」を持ちます。ベンヤミンは写真という複製芸術を、絵画をはじめとした、唯一無二の作品が人々へ抱かせる畏敬の念「アウラ」を持たない芸術として位置付けています。人々が唯一無二な作品を観覧鑑賞するのには、作品を崇める「礼拝的な」意味があるのに対し、写真などの複製芸術の展示を観覧することは、多くのコピーがいかに整理され、て配置されているかという「展示的な」 意味に重きが置かれているというのです。
つまり私が今回写真展に入った意味は、「あの作品がいかに展示されているか」というところに求めるべきでしょう。つまり某書店で立ち読みした本で見たそれとは全く違う印象を求める、という事です。

このような展示的意味に重きを置いた場合、その作品をどう見るかは展示の仕方のみならず私達自身の状態に大きく委ねられているようにも思われます。唯一無二の作品を見ることは、例えどのようは状態でも「本物を見た」ことが意識の余白を大いに埋めますが、写真の様な多くの「本物」を持つ芸術はそうはいかないからです。
私は今回家族旅行という状況にして「偶然に」たった一人別行動を取る形で写真を見ることになりましたが、ここに兄がいたら状況は全く変わっていたでしょう。また京都という土地で伏見稲荷を返上して写真を見に来ているとした意識、展覧会がこぢんまりとしていて人がとても少ないことはわたしの作品に対する印象を大いに左右したはずです。
 
随分長くなりましたが、私の写真観覧(写真が「観覧する」ものなのかはわからないんですよね)はというと非常に素晴らしいものでした。約60枚あったそのうちの何枚かには本当に引き込まれて、写真が動くようでありました。あの時その展示室には私一人でしたがもし他にも人がいたら、その写真はそのようには動かなかっただろうと思います。その代わりにモノクロ写真が色付いたり、違う動きをしたかもしれませんが。それほどたくさんの「本物」をもつそれらの写真には沢山の余地が許されているのです。そんなことを考えながら気づいたら観覧料800円にプラス2000円はたいてリーフまで買ってしまいましたが…だって部屋に飾ったらまた別の顔を見せてくれると思ったし…と自分を甘やかして…。


しかし中には、どうやって見ても、ぴくりともしない写真もありました。それが今回のコラムの題名に使わせていただいた『最後のワルツ』と題された作品です。本来写真というのは現実を切り取ったものであるはずです。だからしかしそれは現実であったはずなのに、その中の男女は私達とは違う世界を生きているように見えました。私はその白黒写真を前にして必死にその時の色合いを想起しようと努めました。ですが、どんなに思い描こうとしても、しかしその写真は少しのも現実味も色彩も帯びることなく、ただ美しい陰影を私の前に提示するのみでした。私の現実が、もはや現実ではない一つの芸術作品へと昇華させられていました。
先ほどまで話したように展覧会で飾られた写真は、今動き出すしそうなほどの現実味を帯びた美しさを持つもの、決して動かない、次元を異にしたような美しさを持つものなど、それぞれの現れ方をしていました。特に『最後のワルツ』に関しては本で見た時とはもはや別物でした。正直、あの写真がこれほどまで私を惹きつけるとは思いもよりませんでした。よらなかったです。

ところでなんで「最後の」ワルツなんでしょうね。私の感動もあれきり、あの展覧会でみるワルツはあれが最後ですがね、ずっとこれから先も本で見ようがテレビで見ようが、あの印象は忘れない気がします。そう思うと何事も出会い方次第なんですね。なんとも思わないものはどんどん通り過ぎていきますが、良い出会い方をしたもの、または私のように良い再会を果たしたものは永遠にその印象が生き続けていきますから。こびりついていきますから 。一か月前に読んだある本に出てきたその写真家の名前を偶然に覚え、二週間前にその彼の写真集を偶然本屋で見かけて代表作を知り、その代表作を提示した看板を京都の市内で偶然目にすることになるとは。ある雪の日に、積もった雪の上に手袋を落とし、その手袋を拾ってくれたのがすごく好みの人で、降る雪の幻想性に後押しされて二人が恋に落ちるような、そんな偶然の物語に似た人の世であることですよ。


駄文失礼いたしました。京都旅行の自慢にはちっともならない文章を書いてしまった事ことを今すごく後悔しています。だからこれだけ言っておきます。
「京都で食べた抹茶パフェは東京のものとは比べものにならないほどおいしかったです。」以上です。ありがとうございました。


森田桃子
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お花の咲く交差点

お久しぶりです。複合文化論系2年の先山です。
気づけばもう2年生も後半なわけで、もうすぐ大学生活の半分が過ぎ去ってしまいます。なんという事でしょう。これから残りの学生生活どうやって過ごそうかなんて考えてみたりします。私達は限られた学生生活の中で日本の未来のために何ができるのだろう。がくせいのわかいちからでせかいをかえる。
なんとなくそんなような、しっかりとしたビジョンを持ち、それで、なんかそれをコミットするために、same dreamを持ったパートナーとwinwinの関係でトゥギャザーして起業し、カンボジアに学校を建てるために、実際になんか大人の偉い人の貴重な時間を頂いて、貴重な体験をしてfacebookにまとめて、その貴重な体験が貴重な経験となって自分の成長へと繋がり有利な状況で就活に挑み、素晴らしい企業理念のホワイト企業に入社する。

素晴らしいじゃないですか。これで充実した学生生活が送れます。だけど、
実際、世の中にはブラック企業ばっかだし、そもそも文化構想学部に入学した時点で就活は有利じゃないし、facebookはやってないし、偉い人の時間がもったいなくて賠償責任が発生するレベルだし、別にカンボジア行ったことないし、行くこともないだろうし、二人で起業しても絶対にどっちかが離脱するし、というかコイツも結局就活してるし、そもそもそんなパートナーいないし、ぼっちだし、将来のためのビジョンなんか持ってないし、

うわ、何も無い。
何も無い。
なにもない。
ただただ漠然とした空っぽの生活。
無意味。
無価値。
クズ。ゆとり。モラトリアム。
死にたい。

世の中、なんだか鬱になることばかりです。

何もかもが嫌になって、外を歩いてみました。

歩いても、歩いても、なんにもありません。

なんだか、お腹がすいてきました。

なんだか、のどが渇いてきました。

途方に哀しくなってきた、その時。

なんと、道端におにぎりとお茶がありました。

きっと、私を見て憐れに思った神様がくれたのです。

神様は、やさしい御方です。

私はすぐさま、お腹を満たして、のどを潤しました。

満腹になって、ふと横を見てみると、

なんと、すぐ隣に綺麗なお花まであります。

神様は、なんてやさしい御方なんでしょう。

私は嬉しくなって、その綺麗な花を持って、お家に帰りました。

世の中、なんだかんだ生きてれいばいいことがあります。

リアルワンチャン

ワンチャン。可能性は低いが、ゼロではないことを表す。この言葉は大学生がよく使い、あまりにも使われすぎて意味があやふやになりつつあるため、ワンチャンワンチャンと言いまくっていればそれでよい。
しかしそのせいで、真の意味の「ワンチャン」の状態に自分が置かれたときにそれを「ワンチャン」で言い表してしまうと聞き手があうあうする現象が多発するようになったように思われる。
そのため僕は普段、真の「ワンチャン」の状態を相手に伝える際は『リアルワンチャン』と言うようになった。

 『リアルワンチャン』とは、僕の敬愛する出川哲郎のいう「リアルガチ」と似たような感覚で捉えていただければ問題ないであろう。

出川哲郎とは、リアクションのみで芸能界を戦ってきた男だ。ちなみに彼にトーク力は皆無である。そのため彼は2014年の夏に初の冠番組『出川哲郎のリアルガチ』という30分間のリアクション一切なしのトーク番組を持つが、第三回で終了する。そう、もう一度言うが彼にはトーク力が皆無である。

 正直、『リアルワンチャン』の話よりも『出川哲郎のリアルガチ』の方が読者は気になっているであろう。期待に応えようと思う。この番組は主に二つのコーナーで構成されている。出川哲郎が15分間トークをするコーナーの「俺のリアルガチトーク」と彼が今会いたい思うゲストを招いてトークする「俺のこの人に会いたい」の二つだ。
ゲストは三分の二がグラビアアイドルであるあたり、僕は彼が好きだ。ちなみに第二回のゲストはグラビアアイドルの今野杏南で、彼女は石原さとみにそっくりである。石原さとみといえば私の好きな女優ランキングのトップランカーだ。彼女の魅力はなんといってもあの重厚な唇であろう。

重厚な唇をもつ人々を私は「唇族(くちびるぞく)(kuchibiruzoku)」と呼んでいる。唇族は石原さとみを筆頭に、井上和香、上戸彩、北川恵子、アンジェリーナジョリーなどがいる。アンジェリーナジョリーは正直唇族に名を連ねられる存在かどうか悩んだが、名前出しとけばおもしろいでしょ感が半端なかったので書いた次第だ。僕はアンジェリーナジョリーの唇は好きじゃないからこの現実が悔しくてしょうがない。だからアンジェリーナジョリーの唇は切り落として塩コショウで下味をつけ片栗粉を軽くまぶして180度の油で3分30秒揚げたのち元の位置にくっつけることをサンタクロースに頼んでおこうかと考えていた時もあった。一年に一度のクリスマスプレゼントを犠牲にしてまでもそうさせたい何かがアンジェリーナジョリーの唇にはあるかもしれない。このことから、誰も得をしないのに無性にその行為をしたくなってしまう現象を「アンジョリーの唇」という。

 そろそろ『リアルワンチャン』の話に戻りたい。その話をするにあたって、まずは「ワンチャン」についてもう少し詳しく説明しておくと、そもそも「ワンチャン」とは「ワンチャンス」の略語である。
おもに日常生活において「一回限りのチャンス(好機)」を表す。可能性は低いがまだチャンスはあるという場合を表すことが多いであろう。
 麻雀においてはテンパイ形が両面待ちと予想される時、待ち牌の間の数牌が3枚見えていることを表し、そのためか、麻雀をする中心層の大学生にこの言葉は好んで用いられるのではないかと勝手に考えている。

 しかし最近ではあまりにもワンチャンワンチャン言われていて、次第に多数の意味合いを含有するようになってしまった。

「クラスのあの子ワンチャンだなぁ~」⇒定型
「明日ワンチャン家に親来るんだよおうえうえうえうえ」⇒確実な未来
「単位?ゆうてワンチャンあるっしょww」⇒可能性ゼロ
「お前この前のワンちゃん(犬)好きな藍ちゃんワンチャンあんじゃん。」⇒押韻

 果たしてこれで本来の、可能性が低いがまだチャンスはあるという意味合いで「ワンチャン」を使いたいときに「ワンチャン」で相手に通じるのであろうか(いや通じない)。
 そこで『リアルワンチャン』が生まれたのだ。

ここで注釈を入れておくと、リアルワンチャンは文語でよく用いられるべきスラングであり、口語で使うとアホにみえる。高校の頃に英語の文法の授業で先生が「これは普通、文章で使われることがほとんどですね、喋るときにこれ使う人は滅多にいません。」っておっしゃって、ふざけんなよ、おれ英語しゃべりたいネン、文語での表現いらんネンって思いながら受けていた授業をだれしもが思い出したと思う。ごめんね。

 
 さて、本来なら最後に『リアルワンチャン』についての面白い話を書く予定だったが、ちょっと自分を過信しすぎていたというかまったく思いつかないので『リアルワンチャン』の「リアル」とうちの「Re:ALL」がかかっていることに気づいた今が終わり時だと思う。

 今回私の言いたかったことを要点としてまとめておいて、私の初めてのコラムとさせていただこうと思う。
・「リアルワンチャン」とは「ワンチャン」の真の意味、一度きりのチャンスのこと。
・出川哲郎はトーク力が皆無、かつエロい
・アンジェリーナジョリー

以上、伊藤英明と同じ中学、それのみが自分の誇り、やまDでした。

無題

「世の中には二種類の人間がいる。削るヤツ、そして削らないヤツだ。」

と、歴史上の偉人名言風にかっこつけて始めてみました。カッコよくないですか?
どうも、削るヤツことweb局1年若松です。
いきなり削る削るっていったい何の話だとお思いでしょうが、なんてことはない“えんぴつ”のことであります。

僕は自分の筆箱に少なくとも1本、ないし2本のえんぴつを常にいれて授業に臨んでいるのであります。シャーペン、ボールペン等ももちろん入れていますが、意識してえんぴつでノートをとるようにしています。
と、ここまでは割と珍しくない話ですが、えんぴつは使えば丸くなるもの。そして丸まれば削るものであります。
さて、えんぴつを削るにあたり、主に用いられるのはやっぱりえんぴつ削り器であります。
小学校の教室によくある電動のやつとか、ハンドルを手動でゴリゴリ回すやつとか、
刃が付いてるだけのシンプルなやつとかいろいろあります。

しかぁし!
そこを僕はあ・え・て・の手作業で!カッターで!削る!という削り方を用いておりィ!
そしてみなさんにもこの方法をおすすめしたい所存でありますゥゥゥゥッツツ!!

で、なぜおすすめかと申しますと・・・(クールダウン)

カッターで削んのチョー楽しいからです。

急に頭悪い感じになりまして申し訳ないのですが、とどのつまり僕がこのしち面倒くさい削り方をするのは“楽しい”からです。
まぁただ楽しいと申しましても、もろもろ理由があるわけで、その理由についてつらつらたらたらとこれから書いていきます。

まず第一に音が心地よい。
一人きりの部屋で一人でえんぴつを削ると
チキチキチキ
シャッ、シャッ、シャッ

カリカリカリ、ザリザリッ

といったような音が出て、とても気持ちいいのです。えんぴつ本体に意識が集中してもいますから、削っている途中は耳にこびりつき離れぬ音であります。
なんとなく僕には音フェチ的な部分があると自覚しておりますが、おそらく世間一般においても“なんかいい音”だと思います。

ンでもって第二に(というかこれが最大の理由だと思うのですが)“手入れ”してる感。
この“手入れ”してる感というのは言い換えれば“手間をかけてる”感であります。

そう!手間がかかる子ほどかわいい!
ツイッターの画像読み込みが5秒遅れるだけで血圧の上昇する僕ですが、えんぴつ削りにかける5分少々は全く惜しまない!全然無駄じゃない!

なので時間をかけて、丁寧に丁寧に削るわけですが、
やはりそれでも市販の削り器で削るよりも歪みが出たり、芯が出すぎてしまう部分が出てしまう。しかしそこがまた愛着のわくところであります。
むしろそのオリジナル感!その唯一無二感を楽しむものでありましょうて!

このように時間をかけて「俺の道具」的な一本を削り上げるのが楽しいのであります。

以上が僕のえんぴつ削りにおける情熱の所以でありますが、実際のところ僕のカッター削り歴はそれほど長くなく、受験生のころからであります。
その理由は恥ずかしながら、単に勉強から逃げたかったからでありまして、単純に時間のかかる方法を選んでいただけでした。

しかして、やってみると頭をからっぽにしてえんぴつを削ることだけに集中することができ、良い気分転換になりました。
そこから習慣となり今の今まで続けてしまっているわけです。

ここまで読んでくださったあなたの筆箱にもぜひ一本!

えんぴつとカッターを入れて、(あれ?二本か?)ふとしたときに削ってみるのはいかがでしょうか?

若松伴弥

おいしい肉じゃがの作り方


1)買い出し
 自炊の基本は、出来る限り安く済ませることです。特に煮込み料理は、食材の差が出にくい料理です。別に1個100円のじゃがいもを買おうが、1個50円のじゃがいもを買おうが味はさほど変わりません。加えて、食材は基本的にバラで買うことが大切です。例えば3本セットで人参が150円だったとしても、3本もの人参を美味しいうちに使いきれるはずがないので、1本60円のものがあったらそっちを選びましょう。
 《買うもの》
 じゃがいも:2個
 人参:1個
 たまねぎ:1個
 薄切り牛肉:1パック
 糸こんにゃく:1袋
 醤油
 みりん
 砂糖
 だし汁(個人的なおすすめはキッコーマンの本つゆです)
 日本酒(お酒はよく分からないので、まあ、好きなものを)
 お米

2)帰宅と下準備
 肉じゃがのお供に欠かせないのはアツアツほかほかご飯です。帰宅後、早速炊きましょう。大体、ご飯が炊ける40分前くらいに包丁やまな板、食材を洗い始めるのが、美味しい食事を開始できるベストタイミングです。
 まず、じゃがいもの皮を剥きます。100円ショップに行けばピーラーが売っています。これを使うと、下ごしらえが大分楽になるのでおすすめです。皮を剥いた後、じゃがいもを一口大の大きさに切り、水を入れたボウルに浸けておきます。
続いて、人参とたまねぎを中心で切り、半分をラップに包んで冷蔵庫にしまっておきます。1個は使いません。今度別の料理を作るときにでも使いましょう。
 半分だけまないたの上に用意したところで、人参をいちょう切りに、たまねぎを薄切りにします。じゃがいもとは別のボウルを用意して、切った人参とたまねぎをまとめて入れます。続いて、袋の水を抜いた糸こんにゃくの数箇所に包丁を入れます。そのまま使うと、長くて食べにくいのです。切り終えたあとは、先程の人参とたまねぎが入ったボウルの中に入れます。
 ここでボウルの中を確認してみましょう。

 ボウル1
 じゃがいも二個(一口大)

 ボウル2
 人参半分(いちょう切り)
 たまねぎ半分(薄切り)
 糸こんにゃく

3)火にかける

 鍋はフライパン以外でしたら何でも大丈夫です。油を引いて、食べたい量の薄切り牛肉を投入します。強火で焼き、赤い部分が無くなるまで炒めます。
 完全に色付いたら、鍋にボウル1、ボウル2を投入し、3~5分ほど、野菜が焦げない程度に炒めていきます。ボウル1のじゃがいもが浸けられた水は、鍋に入れる前に捨てておきましょう。
続いて、だし汁を2カップ、砂糖を大さじ2杯、酒を少々加えます。火を中火にして、全体に味が行きわたるようにかき混ぜながら、沸騰するまで熱します。水分が予想以上に減ってしまった場合は、水を少量足します。当然そのままだと味が薄くなるので、味見をしつつ、好みに合わせてだし汁や砂糖を加えていきましょう。
 沸騰と同時にあくが出始めます。大体この水分の量なら沸騰まで3分くらいでしょうか。あくを取る前に、醤油を大さじ3杯、みりんを大さじ2杯加えます。味見も忘れずに。少し濃いな、と感じるくらいがちょうど良い塩梅です。
 続いて、表面に浮き上がってきたあくを取ります。神経質になる必要はありませんが、汁を必要以上に捨てないように注意してください。
 大体あくの出現も収まったところで、蓋をして中火で20分ほど煮ます。汁気が少なくなったら火を止めます。水分が残り過ぎていると、肉じゃが特有の食感が無くなってしまうので注意してください。


 これにて出来上がりです。お疲れ様でした。完成と同時にご飯が炊ける音(ぼくの家の炊飯器はキラキラ星です)が流れて来たら最高ですね。あっつあつのご飯に、出来立ての肉じゃがを乗せて食う。自分で作った料理なだけに、感慨深さはひとしおでしょう。


 ここまでレシピ紹介でしたが、少しぼくの意見を言わせてもらうと、正直肉じゃがは簡単です。まあ、だからこそ日本の家庭料理の代表として、長年食卓に並び続けていたのでしょうけど……。巷で「結婚したら、嫁の手作り肉じゃがとか食べたいな!」って男が抱く妄想が聞かれる割には、ハードルが低い手料理です。ですが、他人に作って上げるとやけに喜ばれたり、尊敬されたりする(はず)なので、覚えておいて損はないかと思います。自分で食べても美味しい。他人に作ってあげても美味しい。まさに二度美味しいとはこのことです。
                                
                                  栗山直樹

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