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リッこら

Re:ALL製作委員会は一枚岩ではありません。日々委員どうしが小首を傾げ合いながら 冊子を作っています。彼らは一枚岩というよりはむしろ、ガラクタの山のようです。どんなガラクタが埋まっているのか。とにかく委員それぞれが好きなものを書きたいということで始めたコラム、気が向いたら読んでやって下さい。ひょっとしたら、使えるガラクタがあるかもしれません。

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ここで無意味な話をしよう

こんにちは、もしかしたらこんばんはかもしれませんね。まぁともかく、どーもドーモ。羽山諒と申します。前のコラムを覚えている方もいらっしゃいますかね?いたならば重畳。今回も代筆する気が出るってもんです。はい、勿論羽山の代筆です。またお願いされてしまった。

いきなりですけど、昔、といってもたったの50年前くらいですけど、その頃の日本語って今より綺麗だったらしいですよ。

例えばなんですけど「小学校」って発音するじゃないですか。今だと「しょうがっこう」という発音ですが、昔は「しょうぐゎっこう」と発音していたようですよ。

口にしてみるとわかりますが、「ワ」の発音が入ることで柔らかくなりますね。えぇ。

まぁ全部テキトーな事言っているだけですけどね。

私の口から漏れた言葉は基本信じない方がいいと思いますよ。えぇ。

そんな私は前回の話では役に立たない話をしましたが、今回は無意味な話をしたいと思います。暇な方が居たら、まぁ聞いてくださいよ。


実はこの頃VOCALOIDの曲にハマっておりまして、えぇ、VOCALOIDというのは音声合成機械の総称……つまりは機械が歌う曲のことですね。

いや、意外といい歌ありますよ。えぇ。例えばハチPとかトーマP、それとピノキオPとか……これは失礼、話が逸れていましたね。

それで折角なのでVOCALOIDについて調べていたのですが、ふと気になることが某大型電子掲示板に書かれておりまして、その内容というものが『VOCALOIDの曲は名曲には成り得ない』だったのですよ。

さて、ここでまた僕の面倒な性格が滲み出てきます。名曲とは何でしょうか。評価の高さ、感情へ如何に訴えかけるか、技巧の上手さ。まぁ色々ありますね。ですが、ここで聞きたいのは何が名曲を名曲足らしめんとするのかということです。

さてここで唐突に話は変わるのですがみなさんに質問です。


「誰もいない森の中で木が倒れたら、音はするか?」


何言っているのだ、こいつは。などと思われるかもしれません。だけれども考えてみてください、音とは何なのでしょうか。音とは振動が僕ら生物の鼓膜を揺らすから音として認識される訳です。であるならば、我々がいない森で木が倒れても音は決して発生せず、ただの振動が起きるということではないのでしょうか。

それでも、森で木が倒れたら音がするのだ!!と言い張る方、わかりました。ではそういうことにしましょう。これから先は「耳に届かなくても音は音である」ということで話を進めましょう。では早速、聞いてみましょう。


「誰にも聴かれたことのない名曲は名曲ですよね?」


そろそろ皆さんが僕のことを変な目で見てきているのを感じます。ですが考えてみてください、まず皆に聴かれているとか、皆が知っている曲が名曲であるわけでは無いはずです。そうであるなら多分皆が普段耳にするCMなどが名曲になってしまいます(勿論、CMで元々名曲を使っている場合はありますが、それは考えないものとします)。ならば名曲を名曲足らしめる要素は和音、リズムなどが如何に技巧的に優れているかが重要であるはずです。

さてではここでもっと極端な話をしてみましょう。例えばモーツァルトの「運命」、厳密に言えば「交響曲第五番第一楽章」ですが、この名曲がそれこそ運命のいたずらで楽譜のみ書かれて、どこかに封印されたとしましょう。その楽譜は存在します。しかし音は出ません。誰にも存在を認知されていません。しかしその楽譜は名曲の楽譜であるはずです。

いやいや、何もおかしくはないです。だって耳に届かなくても音が音として存在しているならば、耳に届かなくても名曲は名曲といっても過言じゃないですから。

詭弁だと思いますか?えぇそうです、詭弁ですよ。でもこれを完璧に、完膚なきまでに否定してみてください。中々難しいでしょ?詭弁に勝てない正論なんて無力ですよ。

おっと時間ですか。では無理やり話の終わりに持ってきましょう。まぁ結局のところは答えとして「VOCALOIDだろうが何だろうが自分が気に入ればそれは名曲でいいじゃないか」です。肩すかしですか?だから言ったでしょう。無意味な話だって。

ただ、まぁすこし真面目な話をすると、先程の詭弁を壊す方法として「音とは何か、偶然と故意は同じとして扱うのか」とか「聞くと聴くに違いはあるのか」とか、色々とありますがそういうことを考えるのって楽しくないですか?楽しいと思うならこれからも考えてみてください、役に立ちませんけど、このクソッタレな世界が少し好きになります。

まぁ、全部テキトーに書いたことなのですけどね。本当に時間の無駄使いお疲れ様です。

まぁ五年前に書いたコラムだから面白くないのは勘弁です。

五年前の僕は今よりももっとつまらない人間でした。それこそ別人みたいに。

今思うと、五年前の自分って自分じゃないのではないかと思うのですがどうですかね?さぁ、僕にはわかりません。

まぁこれもテキトーな嘘ですけどね。すいません。めんどくさいの好きなのです。

それではそろそろ自分の記事はここで終わりにさせていただきます。さようなら。「サヨナラだけが人生だ」(注1)

匿名希望


(注1)「歓酒」作詞・干武陵、訳・井伏鱒二。から引用。
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Sweet tooth

 一瞬、日差し日の光が差し込んできて 目がくらんだ。ワタシが住んでいるのは、薄暗闇の中。周りにいるのは、同じように暮らす仲間だけ。初めて出会った誰かさんも、目の前を通り過ぎていく大勢のうちの一人 。もう二度と見ることはない。

 誰とも仲良くすることなんてないと思っていた。そんな必要ないと思っていた。誰だって目の前を通り、ワタシたちを惑わすだけ惑わし、すぐに去っていく。思い入れれば思い入れるほど、別れがつらくなるだけ。小さい頃から、そう教え込まれていたし、信じていた。彼が現れる前までは。

 あの日、彼は誰よりも甘くささやきかけてきた。それまでも甘い言葉をかけられたことは何度かあったが、彼のような・・・なんていうんだろう、「甘ったるさ」は初めてだった。ぬぐいきれないような。絶対に忘れられないような。そして、一緒にいる時間が長かったような気がする。なんで、彼は早く去ってくれなかったのだろう。こんなにも強く離れたくないと思ったのは初めてで、こんなにも一緒にいて怖いと思ったのも初めてだった。

 あなたの話を思い出す。あなたには、その精神までやられるほどに「暗闇」を広げられた知り合いもいたって。身体の一部を失った知り合いも。
気をつけすぎるなんてないんだからね、もともとあんたトロいんだから、気を許しちゃ絶対ダメ!わかった? ・・・笑顔。あなたの姿を思い出す。精神までやられたというあなたの知り合いのように朽ちていくあなたの姿。明るい彼女の面影はどこにもなかった。どこまでも闇に堕ちておちて堕ちて、彼女は消えた。

 ワタシもあなたと同じ運命なの?

 それからワタシが「暗闇」に堕ちるまで、そんなに長くかからなかった。溺れるのに時間は必要ない。話には聞いていたけれど、実際に堕ちるのは初めてだ。頭の冷静な部分でそんなことを考えていた覚えがある。ふたりでどこまでも「暗闇」に堕ちていく。闇の底は見えず、深まるばかり。

 知ってる?
 まだそれが暗闇とわからなかった彼女、まだ明るかった彼女は、いたずらっ子のような笑顔で得意気に話し始めた。私たちだけでは「暗闇」に対抗することはできないんだって。ふっと意識を失って、気づいたら自分の身体に傷があるって。傷の大きさはよくわからないけど「暗闇」と一緒にいた時間と比例して大きくなるらしいよ。・・・笑顔。

 あなたは「暗闇」と一緒にいすぎたのね。ワタシを置きざりにしていなくなるなんて。

 痛い。どうしよう、痛い。「暗闇」が大きくなるにつれ、ワタシの中の「暗闇」を怖いと思う感情は薄れ、同時に今まで芽生えたことのない感情と痛みが膨れていった。毎日通り過ぎる大勢のうちの誰か さんに心惹かれることは時々あっても、こんな感情を抱いたことはなかった。彼は誰からも望まれない存在。私のもとからいなくなったら、もう会えない。直接言われなくても、ワタシにだってそれくらい理解できる。

 一抱えの幸福に酔った。酔いがさめた後、は必ず不安になった。これが夢になるんじゃないかと、彼があの子みたいに消えてしまうんじゃないかと。そう思うと、ますます彼から離れがたくなってしまう。

 つらい感情なのに、そばにいていつも恋しい。戻れないんだろうか。彼と会う前の私に。これが幸福か。これでいいのか。毎晩眠る前に思い、毎朝目を開けて考えた。本当はわかっているけれど、わからないふりを続けたかった。痛い。言えない。どうしよう。

 ワタシはそこで意識を失った。

 机の上には、既に空になったチョコレートの箱と緑茶のペットボトル。パソコンを打ち込みながら、頬をおさえた。なんだか歯が痛む。この前治したばかりなのに。放置しすぎたからか、久しぶりに銀歯が増えたし。歯みがきしてこよう。私は書きかけのWebコラムを保存して席を立った。

Re:ALL12号の作り方 または盆暗は如何にして委員会をまとめたか

こんにちは。
机の上でシャンプーの詰め替えをしていたら、ちょっとだけ机の上にこぼしてしまい、なんだかいい香りに包まれながらこのコラムを書いています。
Re:ALL製作委員会 Web局長(2014年11月現在)の平山貴之です。

今回、約半年ぶりくらいでこのコラムを書いていますが、前回は仮面ライダーについて、その前はNMB48について書きました。
半年前、一年前に自分が書いたコラムを今になって読みかえしてみると、「いや自意識がすごい」とか思ったりもしますが、なんだか今は書けない“熱”みたいなものだけは伝わってきます。コイッツ、ホントに仮面ライダーとアイドル好きなんだなぁ。

さてさて今回お話しするのは、まことに手前味噌ながら、この秋に発刊したフリーペーパーRe:ALL12号についてのお話です。
「オオカミに育てられ感情を持たなかった少女が、これを読んで初めて笑顔を見せた」、「目次のすごろくが理不尽」、「適度な厚さだから、カッターでものを切るときの下敷きに便利」などなどたくさんの絶賛の声をいただいている(当社調べ)Re:ALL12号ですが、皆さんはもう読んでくださいましたか?
皆さんから「知らんがな」と言われることを承知で言うんですが、実はこの12号の編集長を務めたのがこのわたくし、Re:ALL村の先駆者・ヴィレッジヴァンガードこと平山貴之なのです。
はい、せーの?
「知らんがな」


編集長とは、Re:ALL製作委員会のなかで言うとプロジェクト・リーダーのようなもので、半年間かけて1冊のフリーペーパーを作る、その過程の総合責任者のようなものです。
つまり、半年に1冊フリーペーパーを出すと、すぐに次の編集長のもとで次号の製作が始まるということですね。現在は、次期編集長のもとで来年の4月に発刊する13号が製作されています。乞うご期待。
 
では、編集長はどんな仕事をしているのか。いや、編集長一般ではなく、少なくとも平山貴之は編集長としてどんな仕事をしたのか。
正直に言えば、何もしていません。
会議のときにピュレグミをみんなに配ってたくらい。あとハッピーターンも配ったかな。

Re:ALL製作委員会は大きく4つの局に分かれているんですね。本誌の文章を書く編集局、誌面のレイアウトをデザインするデザイン局、誌面に掲載する広告を扱う渉外局、そしてRe:ALLのWebサイトを運営するWeb局(私は今、タイピングもロクにできないのにここの局長をやってます、ひー)。
これを読んだだけでわかると思うんですが、この局員たちさえいれば、編集長なんていなくても冊子作れますよね?
「編集長は編集局の一番偉い人なんだから、本誌に書く文章を司る存在なんじゃないの?」という質問が観覧席から聞こえてきました。
いい質問ですね。ではなぜ編集長なんていなくても冊子が作れるのか、今からこのモニターでご説明しましょう。
(ここで何もない床の下からモニターが出現する)

Re:ALL本誌にはいくつかの企画があって(12号だと「闇鍋」とか「人間合格体験記」とか)、それぞれに担当の編集局員が所属しています。
つまり、企画の文章はそれぞれの編集局員がすべて書きます。
そしてその文章をチェックして校正するのは、編集長を補佐する(という名目にはなってるけど、少なくとも私より働いてくれた)副編集長の2人。
なんの謙遜でもなく、嫌味でもなく、端的に編集長は文章を書くプロセスに全く関わりません。
まぁ全く文章を書いていないというわけではなく、目次の文章とか編集後記とかは書きますけど。それでも、書いた文章の量で言えば「編集の長」なんてとても言えないくらい少なかったに違いない。


ではなぜ編集長なんて役職があるのか。なぜ12号のクレジットの一番目に名前を書いてもらいながら、臆面もなくこんなコラムが書けるのか。
それは、さっきも言ったように、Re:ALL製作委員会のなかで12冊目のフリーペーパーを製作するというプロジェクトの、その運営に関しては少なくともリーダーだったと言えるからです。

私の尊敬する編集者、菅付雅信さんの著書『はじめての編集』(アルテスパブリッシング)のなかに、こういう一節があります(業務連絡 名著なので、Re:ALL編集局員は読んでおくように)。
以下引用。

編集者は、自分よりずっと上手く写真を撮れる人、自分よりもうまく原稿を書ける人、自分よりも上手くデザインのできる人などを集め、彼らの特性を活かしたディレクションをすることによって、自分のアイデアを、当初考えていたもの以上にすることができるのです。
逆に言うと、編集者は上手く写真も撮れなければ、質の高い文章も書けず、デザインもできないわけです。(中略)つまり、何にもできない人なんです。編集者には免許がいるような専門的技能や、扱いが大変な大型機材もありません。
でも、自分ができないことには人一倍自覚的になることによって、自分よりも遥かに才能があるスペシャリストを見抜き、集め、彼らを指揮することで、何でもできる人でもあるのです。
(中略)そう、編集者は、何にもできない、何でもできる人なんです。

名文、かつ正論ですね。正論正論セイロンティー。
あまりにも正しいことを語ってくれているので、もう私の言うことなんて無くなってしまいそうです。
どうしよ、残りはまた仮面ライダーの話でもしてやろうかな。

2000年に放送が開始された平成仮面ライダー第一作「クウガ」ではオダギリジョーが主役を演じ
菅付さんが仰っているように、私はRe:ALL12号において「何にもできない、何でもできる人」だったと思っています。
私は、上の引用文で例が上がっている以上に、何にもできません。文章がうまく書けない、写真がうまく撮れない、デザインができないどころの騒ぎじゃない。生まれてこのかた、鉄棒で逆上がりができたことがありません。縄跳びの二重跳びもできないまま早19歳。コーヒーが飲めないので、付き合いで仕方なくスターバックスに行ったときはホットココアしか飲めません。しかも猫舌だから20分くらい待ってからしか飲めません。
それでも、Re:ALL製作委員会に所属している数々の奇才、天才、貴人、変人、先輩、同輩、後輩、友人、チップとデールと修二と彰たちを、いろんな企画に配置することでRe:ALL12号プロジェクトのリーダーでありえた、ということだけは胸を張って言いたい。
そして、私がそれ以上の何かでもあったなんてことは、決して言えません。
あ、でもピュレグミ配りおじさんではあったな。

本誌の素晴らしい文章のほとんどを書いてくれた編集局員、まとまりのある見やすい冊子にしてくれたデザイン局員、たくさんの広告を掲載させてくれた渉外局員、本誌以外にもRe:ALLを知ってもらう機会を増やしてくれたWeb局員……そして何よりもRe:ALL12号を手に取って読んでくれた読者の皆さまに、改めて感謝します。いぇいいぇい。

私の前のコラム、そのまた前のコラムと同じように、このコラムも何らかの“熱”だけを伝える駄文で、これを読んだ人が「コイッツ、ホントにRe:ALL好きなんだなぁ」と思うような文章でありますように。


委員会をちょっとだけ代表して
Re:ALL12号編集長 平山貴之

「私はインハイに出たかった」


序論 ~私は思った「インターハイに出たい」~



高校野球シーズンに、何度も目にするこの光景。
これを見るたびに、私の青春とは一体なんだったのかと考えてしまう。中・高と部活はやっていたし、それなりに頑張っていたけど。なんか違う。文化部だったから?

漫画やアニメの運動部ものにふれるたびに、「なんて輝いているんだ」と感動を覚える。独特の「仲間意識」(なんだと思う)が、美しくて、愛しくて、羨ましい。
勝ったとき自分一人で喜ぶのではなく、なぜかチーム集合して喜ぶ。私もあんな風に喜んでみたい。「絶対インハイ出るぞ!!」って円陣を組みたい。チームメイトを応援したいし、チームメイトに応援されたい。何か失敗しても「切替えていこう!」ってやりたい。おんぶトレーニング(相方をおんぶして階段登り降りするトレーニング。みたことあるから実在する!)とかしてみたい。練習のあと「お腹すいたねー」ってお好み焼きを食べに行きたい。周りに隠れて秘密特訓とかしてみたい。トラブルに巻き込まれたチームメイトを「ダチは見捨てねえ!」(『タンブリング』でよく言ってた)精神で助けに行きたい。試合の前日に不安になって同じ布団で眠りたい。負けて、泣いて立てなくなったチームメイトに肩を貸したい。

本論 ~私は運動部がわからない。~
そうは言っても、小学校のクラブから大学のサークルまで一貫して文化部だった私には縁遠い世界。インターハイはおろか正直運動部のこともよくわからない。私の運動部観は、架空のものから得たこと8割、実在するものから得たこと2割で成り立っている。「運動部に対して夢を見すぎ」と運動部の人間から言われがち。インターハイに出るためにはまず運動部のことを知らなければならない。前々から気になって仕方がない運動部のあれやこれをこの際訊いてみた。

謎①ゼッケンなどを後輩が持ち帰って洗う風習。結局洗うのお母さんじゃん。
答:気にしたことない。
謎②先輩より早く集合しなきゃ!
答:そんな風習ない。
謎③やたら声を出す。(何て言ってるかは部外の人間には聞き取れない。)出さないと叱られる。声を出す分のエネルギーを走ることに回した方がいいと思う!
答:そういうことではない。士気の問題。
謎④突然現れた不良が部を引っ張りがちだけど、前から真面目にやってた人からしたらどうなの?
答:気にしない。
謎⑤「先輩たちの無念を晴らします」って言うけど、後輩が勝って自分たちの無念晴れるの?
答:言うほど無念を感じてない。
謎⑥ケガ痛くないの?痛くても続けられるのは何故?
答:そりゃ好きだからでしょ。

結論:運動部の心の広さは海。意識の高さは山。雑念はない。

結論 ~私は悟った「インターハイそれすなわち涅槃」~
運動部の人々は生活を部活に費やしてるんだなぁと常々感じる。(『テニスの王子様』で「命を懸けて挑んでこの程度か…」ってセリフがあったから、命かけてるんだと思う)朝練やって夕方にも練習して自主練もして。甲子園やらインターハイやらに出場できる子は、そのぐらいやらないといけないんだろうけど。だから勝ったときにあんなに喜べて、負けたときにあんなにぼろぼろ泣けるんだ。部活以外に大事なものが山ほどあった私とは違うのなんて当たり前。多少の汗は流しても、血も流さず、怪我もせず、泥にまみれない私とは違う世界。つまり彼らは異世界の人間であると言っても良い。(人間なのかな?)

このように限界を超えるような鍛錬を積む肉体も驚異であるが、それに伴う精神はもはや神の領域に達しているのではないか。チーム競技は出場できる人数は決まっているわけで、そこから外れる人が出てくる。試合に出られないのに、どうして腐らずにいられるの。皆を支えようとするの。
「一度は腐ったけど、やっぱり野球もチームも好きだから」
そう答える球児を度々目にした。あまりの尊さに私はひれ伏した。彼らだって試合には出たいはずで、素直に応援できないこともある、と聞いた。そりゃそうだよ。でも辞めずに続けているだけ立派だと思う。そして試合に出ている子たちは「部員全員で戦っています」と言ってのける。実際にコートに立つのはメンバーの子たちだけなのにである。たとえ試合に負けても仲間を責めない。「ありがとう」の言葉を贈る。定番フレーズ「このチームでよかった」。こんなことを高校生にして言えるなんて…。

きっと彼らは、俗世のくだらないことからは解き放たれているんだ。レギュラーとか勝ち負けとかユニフォームの汚れとかそんなことを超えた先にいるのが彼ら『運動部』。煩悩にまみれた人間から進んだ存在。熱闘甲子園で工藤さんが
「甲子園に野球の勝ち負けはあっても敗者はいない。なぜならば球児たちはみんな輝いていたから」
と述べていたけど、これは球児だけでなく運動部のみんなに言えることなんだ。
インターハイに出るためには、精神修行から始めないとならぬ。まずは運動部の子を邪な眼で見るのをやめます。

たちきしおり
協力:運動部聖人8年目の弟

ブロマンスのすすめ

「ブロマンス」という言葉をご存じだろうか?
「brother(ブラザー)」と「romance(ロマンス)」の合成語として「bromance(ブロマンス)」という単語が生まれたのは、1990年代のことだ。アメリカのスケートボード雑誌「Big Brother」編集者のデイブ・カーニーは、仲の良い男同士を「the relationship between skate-buddies who spent lots of time together and/or shared hotel rooms on road trips. (四六時中いっしょにスケートボードをしているような関係、または、旅の道中同じホテルの部屋に泊まるような関係)」と表現し、この関係こそがブロマンスだとした。そして2007年には、「The Age」の編集者エリオット・ティムが、記事内でブロマンスの定義を「a close but nonsexual relationship between two men. (親密で、しかし性的ではない男同士の関係)」と述べた。
なお、現在ブロマンスは広義的に「男同士の絆や特殊な関係、またはそのありさまを描いたもの」として受け止められている。親友、兄弟、相棒、果てはライバル同士や義兄弟、師弟、主従などその有効範囲は広い。

さて、日本ではまだ普及しきっていない「ブロマンス」であるが、実は海外では広く認知され、大いに支持を受けているのである。
「兄弟」もののブロマンスとしてアメリカで最も人気が高いドラマ『Supernatural(スーパーナチュラル)』は、本国にて催された「the People's Choice Awards」にて、「Favorite TV Bromance」「Favorite Sci-Fi/Fantasy Show」「Favorite Sci-Fi/Fantasy Actor」の三部門でトップを冠した。まずそんな賞があることが驚きだ。ここまで『Supernatural』が支持を受けるのは、ストーリーの根幹に、なにをもってしてもゆるがない、徹底的な、むしろやり過ぎに思えるほどの「兄弟愛」を据えているからである。過酷な運命をたどる兄弟と、その閉鎖的・偏執的な関係。家族という切っても切れない血縁関係の妙を惜しげもなくみせるという点で、脚本の勝利ともいえるだろう。
また、イギリスの放送局BBCにて2010年から放送している、ドラマ『SHERLOCK(シャーロック)』では、現代版シャーロック・ホームズというコンセプトのもと、ベネディクト・カンバーバッチ演じるシャーロックと、マーティン・フリーマン演じるジョンとの強固な絆が綿密に描かれている。ふたりはなんと、ロンドンのタウン誌に掲載された「London's top ten couples」において、英国王室のウィリアム王子夫妻を差し置いて堂々の1位に選ばれた。同メディアは、「あらゆるところに二人が慕い合っている痕跡を見つけることができる」と述べ、さらに「シャーロックはジョンを、ジョンはシャーロックを必要としている(Holmes needs Watson; Watson needs Holmes)」と断言し、二人の関係こそが「真実の愛(true love)」だとつづった。

『スター・トレック』において、宇宙船エンタープライズ号のカーク船長とスポック副長のバディはブロマンスとして名高い。スポックにはこんな名言がある。「I have been ... and always shall be ... your friend.(たとえ死んでも私は永遠にあなたの友人です)」。
映画『キャプテンアメリカ ウィンター・ソルジャー』にて、記憶を失った親友バッキーにキャプテンアメリカはこう言う。「I'm with you till the end of the line.(最後までずっと一緒だ)」。
『トイストーリー』の挿入歌「君はともだち」では、「And as the years go by / Boys, our friendship will never die / You're gonna see / It's our destiny / You've got a friend in me(時が流れても変わらないもの/それは俺たちとの絆/君はともだち/いつも俺がいる/君のそばに)」と高らかに歌い上げられている。

 今日、世界は変容の嵐の中にある。途絶えることのない技術革新、波立つ世界経済、外交関係の緊張……。目に見えるもので「不変」を体現しうる存在は希少であり、日本の「諸行無常」観に似た思想が、ややマイナスの意味を伴って世界に広がっているように思われる。
だからこそ今、ブロマンスが必要とされているのではないだろうか。作品の中、どんな困難に見舞われても、彼らの友情は貫かれる。そして彼らは、目に見えないたしかな友情掲げながら、「永遠」を誓うのだ。
たとえ死んでも、最後まで、ずっと、一生、何があっても……。そんな言葉をまやかしだと一蹴するのではなく、この不安定で流動的な世の中の励みにする。ブロマンスの意義は、そこにあるのだろう。


近江 由圭

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