道を調べずに、適当に動き回るのが好きだ。
目的地さえ決めなくてもいい。
ぶらり赴いた先での、様々な出会い、発見。
そうした過程こそが旅の醍醐味であろう 。
毎年、この季節になると高校の修学旅行を思い出す。
私の通っていた高校の修学旅行の目的地。
首都圏の高校ならば、海外や沖縄、北海道あたりがメジャーだと思うのだが、私の高校の場合、なんと、京都だった。
普通ならば中学で行ってしまう場所に、何故今さらという思いはあったが、大人しく受け入れるしかない。
中学の修学旅行とは違い、高校の修学旅行は自由行動の時間が多かった。ずぼらな私は、せっかく時間もあるし、周りもみんなそうしていたので、とりあえず大阪へ行こう、とだけ決めて電車に乗り込んだ。
いざ着いてみると、大阪という街は思っていたほど面白いところではなかった。一通りぶらついた後、やることもないからと日が傾くのを待たずに宿のある京都へ帰ってしまった。京都に戻ると、まだ少し時間があったので清水へ寄り、その後は適当に歩いて北上しながら 途中目についた建物に入り、出て少し歩いてはまた別の建物に入り、というのを繰り返しているうちに自由行動の時間が終わった。最後は門限ギリギリになって京都の街中を全力疾走した。
本当に、ただ歩いていただけと言えばそれまでかもしれない。だが、私にとっては、とてもかけがえのない時間だった。
特に京都は、ぶらついているだけでも、坂の多い道、古い建物、まだ微妙に緑を残しつつ色づいた紅葉、他にも色々の、見たことのないもので溢れているので、飽きない。それらを目にすることで、小学生の頃に持っていた、冒険心のようなものがくすぐられた。
あの日、私はクラスメイトの誰よりも、京都を満喫し、自由行動の時間を堪能していただろう。
情報社会においては、最短距離が好まれる。
今や小学生ですら持つようになった携帯電話にはGPSがついていて、ナビゲーション機能を持つ機種も増えてきた。ナビは最短距離、最速距離を割り出して、人々を急かす。
それは、都会の人間にとって、とても都合の良いものだ。
都会生活においては、最短距離が好まれる。
都会に住む、あるいは都会で働く人間は忙しく、電車が5分遅れただけで、駅員を怒鳴りつける者さえいる。駅の階段の位置を把握し、その階段からもっとも近いドアから降りるには、乗る駅でホームのどの位置にいればいいかを、緻密に計算する。それは、非常に効率的で、合理的だ。
だが、合理性が全てだろうか。
合理性にとらわれた人々は、階段から離れたところにあるキヨスクのおばちゃんが、とても気さくなことを知らない。
合理性にとらわれた人々は、普通だったら通過してしまう駅を降りた目の前に、穴場なレストランがあることに気づかない。
合理性にとらわれた人々は、馬場歩きで浴びる日射しの暖かさ、風の冷たさを感じることができない。
合理性から離れてみることで、新たな発見を得ることもある。目的地まで一直線よりも、寄り道ばかりの旅の方が、きっと何倍も有意義で、何倍も面白いはずだと、私は思う。
それに、迂回路を通った方が案外、最短距離より早く目的地に着けるかもしれないのだ 。科学の世界では、失敗だと思われた実験結果を、 じっくり検証してみることで、それが後々のノーベル賞受賞に繋がるというケースがままある。「急がば回れ」などと、昔の人は上手いことを言ったものだ。
最後に「旅」に行ったのは、今年の3月、受験が終わり、第一志望に落ちて進学先が確定して間もない頃に、高校の同級生である友人と自転車で行ったスカイツリーだ。大学に入ってからは、何かと多忙で、なかなか旅に行く暇が作れない。
知らず知らずのうちに、都会生活の忙しさに呑まれ、私自身も合理性を志向していることに気づいて嫌気が差す。
たまには、忙しい生活から抜け出してみようか。
先日東京駅に行ったところ、間もなく京都の紅葉は見頃を迎えると観光案内に書いてあった。
せっかくの機会だ。どうせなら近場じゃないほうがいい。
8ヶ月ぶりの旅は、3年ぶりの京都にしよう。
(中村宇明)
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