好きなものについて思い思いに語るこのWebコラムですが、語れるほど好きなものがない、ということに最近悩まされています。「知れば知るほど、語れることが増えていく」。これが理想なのかもしれませんが、いかんせん対象物を好きになるだけで終わってしまうのです。
端から見れば些細な、しかし至って深刻なこの問題について、好きなものの全貌を知ってしまうのはもったいない、と思ってしまう性分を原因の一つとして挙げる説もあります。好きという感情はなるべく長期間持続させたいし、対象物の消費といった楽しみが待ちうけていることにある意味、保険をかけているので、いつかいつかと小出しにしているうちに冷めてしまう場合があるのです。「課題が終わったら」や、「自分にご褒美」などの文言に代表される戦略的禁欲が生む悲劇という見方もできます。
どのみち全貌を知らなくてうまく語ることができないのなら、いっそのこと対象物自体がよくわからない、詳しく知ろうとしてもたぶんよくわからない。そういうものに照準を合わせてみます。「よくわからなさ」を愛として語ることにします。
というわけで前置きが長くなりましたが、
私にとっての「好きなもの」として今から語るのは円城作品、および作者本人についてです。
ご存知の方も多いと思いますが、芥川賞作家の円城塔さんです。
作者本人を「もの」に分類していいかどうかは微妙ですが、「小説製造機械になるのが夢です」(本人談)とのことですし、語弊はないだろうと思われます。
「わからん?!円城塔」円城作品については、
「よくわからない」
この一言に尽きます。
ふつうの小説に比べて圧倒的に会話が少なかったり、祖母の家の床下から大量のフロイトが出てきたり。きちんと意味をつかみながら通読できたためしがありません。よくわからないので、一つ一つの作品について、ストーリーの側面からの言及は割愛します。
ただ、よく分からないなりに、とりあえず流されるままに文字列の上に視線を滑らせ続けていると、はた、と目をとめる瞬間があるのです。イメージが結ばれる瞬間があるのです。その一節に出会えただけで、それ以外の意味不明な文字列を追ってきた意味があると思えてしまいます。
作品中の独特な文体や言い回しには中毒性があることが知られています。円城さんの小説作品と、論文やコラムとではまた色合いが違っているのですが、後者は現実のことが書かれていてもどこかそっけなく、しかし心くすぐられる無機質さがあるのです。
そして、これは多くの円城作品に共通して言えることだと思いますが、〆方が最高に格好良い。物語そのものを含んだ物語は、収束するときにこそ素敵な仕掛けを残してくれます。こうした物語生成の妙を突く作品としては、真っ先に『屍者の帝国』を挙げたいと思います。
「円城塔の『悪ふざけ』」早逝した作家・伊藤計劃と円城塔の共著『屍者の帝国』は、死体を働かせることが可能になった(とされる)、「フランケンシュタイン以後」の19世紀末を描いた作品です。「屍者の王国」の極秘調査にはじまる諜報員ワトソンの冒険が語られるのですが、語り手は記録係として彼に随行する一体の屍者(蘇った死者)です。第三者によって書かれる形式であることと、この作品自体が、書き継がれて完成を迎えたものであること。その二つの要素が最後に共鳴しあい、冒頭から物語の奥深くに仕掛けられていたメッセージに気づかされる瞬間、作品のもうひとつの姿が読者の目にさらされる瞬間は圧巻です。
「作家が遺した作品を、盟友が書き継ぐ」ことは、追悼とも言えるでしょうし、一見美談としてまとめられがちな構図ではあります。しかし、この『屍者の帝国』の場合、そういったことは本来意図されていたわけではなかった。それをここに強調しておきたいと思います。
「死者が動く話を病室で書いていた本人が死んでしまった。ならばその悪ふざけを続けていこう」というのが円城さんのスタンスでした。「追悼などというものではなく、SF界の冗談の特性、“人の悪さ”を生かそうとするのが狙い(毎日jpインタビュー)」だったそうですが、悪ふざけと言いつつも、誰かが書いていた、書こうとしていた物語を動機まで引き受けて書き継ぐことは、物語と真剣に向き合っていなければできないことだと思います。その結果として、上で触れたようなあざやかなトリックを見せてくれる。そんなことをされると、またふたりで共謀して何かやらかしてくれるのではないか、とあらぬ期待をしてしまったりもするのです。
「『小説製造機械』の素顔」 インタビューは、作品からは読み取れない作者の素顔を知ることができる場所、と言ってもいいと思います。
インタビューでの円城さんはとてもかわいい。作品が作品なので、インタビューでやっと作者の顔が見える。そんな印象もあって、「小説製造機械」ではなく生身の人間が作品の向こう側にいることを認識させられつつ、作品の難解さとインタビューでの「ゆるさ」とのギャップに惹かれてしまうのです。
それでは、個人的に宴もたけなわですが、このあたりで終わりたいと思います。「好きなものを語ることができない」あいだは対象物を好きとは言えないのでは、という懸念と、それでも一度にすべてを味わいたくない、という欲求。相反する二つの思い。最高にどうでもいい葛藤ですが、そんな中でも「知れども知れどもよくわからない、語ることが難しい」ものを好きになって、「よくわからない」ことそのものを、「語ることができない」ことそのものを、こうして語ることができてよかったと思います。
(祖父江愛子)