人は誰しも欲望をもっています。食欲・睡眠欲(休欲)・性欲の人間の三大欲、さらに名誉欲(昇進欲)・金欲を加えた五大欲、細分化すれば百八の煩悩といったところでしょうか。それこそ数を挙げればきりがない人間の欲望ですが、その欲望は別の不安や不満といったものをかきたてる要因にもなり得ます。そこでふと、そういった内在するエネルギーは物語の中でも見ることができるのではと考えました。本コラムではフランツ・カフカという作家の作品を紹介しながら「欲求」というテーマを取り扱っていきたいと思います。
カフカの作品に出てくる手法として代表的なものと言えば、人間と動物との間にある境界を取り払ってしまうのが挙げられます。人間の世界から逸脱することによって動物の世界から主張をし、人間=動物が自分自身の生活や癖を語る。すなわち、自分の中にあるものを客観的に余すところなく透視してしまう語り口です。本来なら決して見通すことのできない心の深淵を語り手自らに告白させることによって、認知を可能にするのです。たとえば、人間となった猿による、自己が人間になり替わっていく経過を描いた物語『ある学士院への報告』、犬の生活の本質をあらゆる角度から探求する老犬の回想『ある犬の回想』、雌鼠の歌手ヨゼフィーネの動静をめぐって種族の今後の目算を立てるとある鼠のルポ『ヨゼフィーネという歌手(ねずみ族物語)』などは、変身へのいろいろな形での作者の欲求を見ることができるでしょう。中篇小説『変身』では、グレゴール・ザムザが毒虫に変貌し、日常生活の中へのこのこ出てきて肉親の嫌悪と侮蔑を浴びながら息絶えてしまう自嘲気味な内容で、なんともやり切れない自分自身が描写されています。それらはいずれも滑稽であり、同時に耐えがたい苦渋に満ちています。どれだけ苦悶にまみれても、脱出は叶わない。そんな現状への強い不満が諦念や鬱憤となって描かれる表現を読み取ることができました。
不満に満ち溢れる現状から脱したいと思うのも立派な欲求のひとつです。家庭で父親と不和であったカフカがその不幸を『変身』に書き、再び動物に変身する余裕もなく『判決』では自分自身に死刑を宣告して、投身自殺で命を落としました。自らがいかなる成功を収めても血は争うことはできない。当然ですがそれは生まれついてのことなのです。カフカにとって父親が不幸の象徴的存在であり不安因子であったことは疑いようもありません。目を背けたくても背けることはできない、できたとしても許される所業ではない。予防線ではありませんが、逃げたいと思った時は得てして逃げ道は先に塞がれているものです。 そして、その先を塞ぐものというのは眼前に現れてはじめて認識できるのです。すべてを捧げて信奉し推し進めてきた、前衛的な死刑を執行する死刑執行台が不意に壊れる時、その執行台を動かす装置から大小無数の歯車が次々にあふれ出てきて、砂地を転がるとひとつずつごろりと横になって静止する。夢の幻想である歯車はいつまでたっても処理されず取り残されている(『ある流刑地の話』)。この横になった歯車にずっと「凝視される」不安は、耐え難いある種の粘着です。個人が抱えるものは、仮に他人に告白しても、往々にしてせいぜい同情止まりで共感を得られないような問題ばかりです。私が溜めに溜め込んだレポートの処理に追われていても同情されこそすれ決して手伝われはしないでしょう。それと同じで、不満というものは結局のところ、その不満を共有する者の間でしか、そこから脱出したいという欲求は強く働かないように思えます。とはいえ、そんな不満を物語にまで落とし込んでしまえばそれはそれで面白いものですが。「他人の不幸は蜜の味」とはよく言われますしね。
何かしたいという思いが不安や不満を掻き立て、そういった不安や不満から脱したいという欲求が生まれる。当然と言えば当然なのですが、そのループが物語になると思うと違った新鮮さを感じます。何かをしたいと思うことが物語の発端です。以上、夏季休暇期間が終わり、休み中の動物的な生活から人間的な大学生活に戻ることに一抹の不安を抱く今日この頃です。ふとした拍子に自分の生活習慣がにじみ出ないよう気をつけたいのですが。
木村諒士
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