わたしはまた、実在する国のどんな些細な現実にしろ再現したり分析したりしようとはせずに(その逆こそが西欧的な陳述の企図するところなのだが)、この世のなかのどこかしら(かなた)の、幾つかの特徴線(この、製図法的にして、かつ言語学的な言葉よ)を抜きとって、この特徴線で一つの世界をはっきりと形成することができる。日本、とわたしが勝手に名づけるのは、そういう世界である。
(ロラン・バルト『表徴の帝国』宗左近訳、ちくま学芸文庫より)
老人
無垢。その瞳には迷いがない。何かをしたいと欲したとして、間髪を入れずに実行する。その行為についての考察などという煩瑣なことは行わない。悟りとは、自らの中に世界の全てを視ることである。
ものを口にする。新聞を開いて、目を通す。椅子からそろそろと立ち上がる。全ては古来の舞台装置の上で行われる。歌舞伎の文法。型に嵌った動作、その手の動きは必ずルーティンを一巡する。新聞のページを繰る手は、一度必ず指先でピシャリと紙面を叩いてから、両手で素早くその紙束を打ち振る。
動作だけでなく、発話もまた伝統調である。あらゆる音域を辿って呻きながら言葉を口の中で転がす。歌舞伎では、くどきと呼ばれる。怒ったときにはツラネと呼ばれうる。発語は単に伝達機能ではない。言葉の端緒に呻きの前奏が入る。呻きによって、発声自体の意味を探るように。もしくはそれを思い出そうともがくように。
仕草は音を伴わずにはいられない。ここでは鳴らすことが動作の目的である。歩行は高らかな、しかしずんぐりと重い靴音を鳴らす。机上に書物を、置くというよりは叩きつける。かつて、彼が若いころ隆々と体内に巡っていた力は、音響によって代弁される。力は本体の周囲へ飛ばされる。それは浮世に放出される矢である。
くしゃみ、溜息、あくび。それらも彼らにとって、弓矢として機能する。人が持つ呼気機能の限界を体現しようと試みるそれらは、一種の咆哮でもある。猛獣の咆哮は大地を揺るがしにかかる。かなたへせり出す自存在のイメージを夢に見た、精力旺盛な自己表現。
彼らの趣味は、舌打ちしたり、口に含んだり、唇を開閉させることにある。つまり、赤ん坊なら母親の乳首に依存しようとするあの、口唇愛にまみれようと欲する。食事の際、咀嚼を口全体と聴覚で、存分に堪能し尽くす。誰よりも咀嚼の娯楽性を知っている。食物を飲み下した後も、舌と口蓋を擦り合わせて余韻を愉しむ。食後は爪楊枝、ときには糸楊枝で大切な口内を清掃する。このとき、歯の間から鋭く空気を吸い込む。愛する口内に、世界を招き入れようとする。さながらもてなし好きの老夫妻である。
児童
「なぜ?」「なに?」問いはいつでも抽象的である。その模型として、法律を持ち込むことはできない。その問いは、憲法である。なんらの解決も試みず、ただ投げかける。常に投げかけ続けること自体に意義がある。
一つの集団で騒ぎがあれば、瞬時に飛び火する。小火から火災になるのは一瞬で、小火のままで終わることはほとんど有り得ない。ただし、外部からの鎮火は必要ない。激しく燃え上がる分、火種はすぐに無くなり、跡には燃えかすが燻っているのみになる。そのため、大人が危惧するように、大事に至ることはほとんど無い。
その視線を、眼差しとは呼ばない。ほとんど視線ですらない。茫漠と辺りを見渡し続ける。その眼はすべてを捉え続けるが、特には何も捉えない。線というより、面である。多分にパノラマ的。視界から外れているものを、常に好奇の眼で追い求めるが、捉えた時には捉えてしまったがゆえに、そのものへの興味は消えている。その視界=へだたりでもある。
至って冷静である。とりたてて何かに興奮することはほとんどない。興味の範囲もまた、パノラマ的であるから。一時、熱烈な情動とともに何かに囚われることがある。ただし何にかはわからない。実際何かにということではない。自動販売機のおつりレバーに。先生が折ったチョークの欠片に。大人がパソコンを前にキーボードを打つしぐさに。彼らは囚われる、空虚な瓶の中身に。
彼らの得意分野は、考えることである。ただし児童にとって、よく考えることは沈思黙考を意味しない。思考は試行である。奇声を上げるとき、他人に体をぶつけるとき、それはつまり思考である。「考えが及ばない」などということは、ここでは絶対に起こらない。
読み手
読む者は随時、構造主義者になる。読むことの始まるとき、紙の上に点在するインクの染み、または画面上に映るドットのかたまりが至上の価値を持ち始める。地の部分から浮き立たされる。染みやドットの世界内でもさらに、上下関係が規定される。ある染みはいつまでも記憶され、ある染みはほとんど読み飛ばされている。あるドット達はわずかに輝きさえし、あるドット達は気配を殺している。
静止している。しかしその静けさは水のようである。静止は醸しだされている。ところが目を近づけてよく見ると、恒常的に、不規則に揺れている。動きはある。しかし自分を描写する心は、「私」の中に静かさをのみ見る。
一連の文章を読み終えるとき、安堵が訪れる。安堵は征服の変奏である。一つの地を征服したときの安堵はしかし、まだ目の粗い征服網とでもいえる。火の見櫓から見はるかすその視界は、ただひたすらに見はるかす。はるかな視界は火の見櫓から降りてパトロールしたときの、古物商の品々、子供をしつける親、雨宿りをするおじいさん、そして高みから見下ろす火の見櫓の、その高み自体を見ていない。
(伊藤和浩)
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