忍者ブログ

リッこら

Re:ALL製作委員会は一枚岩ではありません。日々委員どうしが小首を傾げ合いながら 冊子を作っています。彼らは一枚岩というよりはむしろ、ガラクタの山のようです。どんなガラクタが埋まっているのか。とにかく委員それぞれが好きなものを書きたいということで始めたコラム、気が向いたら読んでやって下さい。ひょっとしたら、使えるガラクタがあるかもしれません。

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

醒めた夢



混雑したラウンジ。
化粧室に一番近い4人掛けの机の上には、昼下がりの陽が射している。
その周りを囲んでいる何人かの文キャン生。


「こないだも38AV教室で、先生がエヴァ流しててさー、私にとってはほんとに、ただの趣味の時間なんだけど!レポートも浜崎あゆみで書いたことあるし!」
「あー?」
「だからだから、ほんっと文キャンってサブカル好きだよねえー。なんか、うちらほんとに勉強してるの?って気になるぅ」
「あのさそういうの、俺すげえムカつくんだよ!別にいいじゃん、エヴァ流しててもアイドル論じても。今の時代、大学生ならそんな感じなの普通だよ普通。つうかそれで真面目に授業聞いてたり論じたりしてるならいいけど、本当にまともにやれてんの?」
「えー真面目にやってるよ!ちゃんとリオタールとかベンヤミンとか引用してるし、こないだのAKBで書いたレポートなんて5000字も書いちゃったんだから!私AKBめっちゃ好きみたいじゃん!って!思っちゃった!」
「ムカつくわー。実にムカつく。なんかそういう中途半端っぽい感じが癪に触るんだよ……。」
「なに、そんなに私のこと嫌いなの?」
「お前というか、文キャンが全体的にクソ過ぎるんだよ!」






「そうかなー。俺は文キャン、確かに自称サブカルっぽいところはぶっちゃけあんまり好きじゃないけど、落ち着いてる人が多いところは好きだよ」
「あー、まあそれはな」
「授業中も喋ってる人とか少ないし。今期、俺オープンで本キャンの授業取ってるんだけど、大教室の後ろ半分とか民度低いなんてもんじゃないよ。スマホ弄ってるか、寝てるか、喋ってるか。男女でいちゃついてる奴も多かったし」
「でもそれ言うと文キャンも、38AVの2階とか民度低くない?」
「そうそう!それこそずっとPC弄ってて、100%こいつ授業受ける気ないだろっていう人が常に1人はいるイメージだわ。だいたいさ、1階の席が空いてるのに2階で受ける人とか、意味わからん。映像観るときとか見えにくいのわかるじゃん」
「あと俺、AV2でよく見る気がするんだけど、授業開始50分とかに平気で教室入ってくる人いるじゃん?しかも割と少なくない」
「あれ私よくやっちゃうんだよねー。あの教室って面白い授業やるじゃん?それが地味に2限に結構あるんだけど、2限とか起きられないじゃん!」
「だから文キャン生はマジでクソなんだよ!遅刻に対しての罪悪感がまるでない。まあ俺も起きられなくて寝ブッチはやるけど!」
「だって文キャン生、そういうときに優しく真ん中の席入れてくれるんだもんねー」



「あれもクソだよ、あの文キャン最深部の謎な森空間」
「えー、あれ緑があって和むじゃないですかー」
「と思って作ったんだろうけど、あれわざとらしいカップルホイホイにしか見えないわ。夜にあの電燈の下のベンチに座りにいくカップルを想像すると虫唾が走るもいいとこだろ。あれだな、いかにも路上ライブしてそうなアーケードの脇のところに、マイクスタンドと椅子がガッチリ準備されてて、『後は座るだけ!』みたいになってたらやだろ?そんな感じ」
「わざとらしいのは確かにな。でもフリーペーパーの撮影とかでよくあそこ使うじゃん、そういう意味ではいい働きしてるよ」



「ところで文キャンの階数表示ってよくわからなくないですか?僕たちがいるここは2階っていうことになってますけど、これも少し紛らわしいですし」
「そうですよね…私もエレベーターでここの上から降りてくるとき、つい1階のボタン押しちゃいます…そしたら変なところに降りちゃって……」
「ここもそうだけど何が一番謎かって、あそこのガラス張りのとこから見える31号館だよ。ラウンジ出て上がりも下がりもしないで、真っ直ぐ31号館行くとするだろ?あの意味わからん外の通路からしか入れない教室の表示は1階なんだよな。そりゃ階数わかんなくなるわ。お前、次元とか違うのかって」



「あとあれだよな、36号館の裏あたりにある喫煙所、夜は一見さんお断りみたいな空気で通り抜け辛いよな」
「そう?私は気にしないで通っちゃうよ」
「その通りづらさ俺もわかるけど、夜のなんか怪しい通り辛さはいいんだ。いい感じにみんな留年生っぽいクズな感じが。でも、昼休みとか3限あたりの空気は最悪だと思うわ。擬似リア充とガチリア充と人間的に駄目な奴しかいなさそう」
「べっつにそんなのわかんなくね?見た目で」
「まあ36号館の裏はともかく、文カフェ横は間違いなくそんな感じだと俺思うよ」
「えーそうかー?」



「そういえばさ、多元って今年は去年より若干調子良さそうだけど、相変わらず人気のなさは群を抜いてるよね。俺もあそこにはすっげえ悪いイメージしか持ってないけど、講義とか見ると意外と面白そうなことやってんじゃん」
「そうなんだよね、俺はあれ、あまりにも『多元はダメだろ』的な神話が文キャン内に定着しすぎてるからだと思う」
「あっ、それ超わかるー。私もサークルの先輩とかにめっちゃ言われたもん。先輩と論系トークになったときはまず多元DISるよね!」
「だから多元はもっと面白いことやってるっていうのをアピールしたほうがいいと思うんだよ、ガイダンスとかシラバスとかで。そういえば多元のフリーペーパーを出そうとしてる人がいるみたいな噂も聞いたことあるんだけど、どうなったのかなあれ。」



「あと不思議なのはさー、文カフェの外の席だよね。あそこを敢えて半屋外にした理由がいまいちわからない。なんでかって、あそこ夏とか冬の気温じゃ誰も使わないわけじゃん。ということはだよ、授業ある時期考えたら、あそこ使うのって主に4・5・10月ぐらいなんだよね。なのにわざわざあんな広いとこ半屋外席にする必要あるか?って、ないでしょ」
「でもさーあそこ、ちょうどいい気温のとき気持ちよくない?あたしは好き」
「そういうのはそれこそ、ラウンジ外のそこのテラス席的なとこ行けばいいんだよ!あとベンチとかもキャンパス内沢山あんじゃねえか」
「そう、俺が言いたかったのはそういうこと」
「そういうとこいけ好かないんだよ文キャンは!なんかちょっとおしゃれっぽくしたらいいんじゃね?みたいなね」




「文カフェと言えばさあ、入口のあのガラス張りの大きな扉あるじゃん?あれあたし重くて開けられないんだよねえ、体ごと寄っかかって押すもん!」
「そういうアピールは別にいらないかな」



「ところであのフェンスって、いつまであるんでしょうね?」
「うーん俺が入ってからずっとあるから、なんか、もはやこれからもずっとあるような気がするわ。いや真面目な話、少なくとも4月にはなくなってるっぽいよ」
「あれが文キャンの迷宮たる由縁じゃん。あれなくなって開けた感じの眺めになるのはすごい良いんだけどさ、ちょっとさみしい気もしない?」
「それあれだ、口内炎がなくなっ




「て」


気がつくと、机に一人で座っている。外は真っ暗。
今ちょうど、一組の男女が自動ドアから出て行くところ。
入れ違いに、警備員さんが入ってくる。柱の時計は22時前を指す。


「こんばんは」


警備員さんは答えない。

手に持った木魚を叩き出す。
ポクポクポク…


僕の体はだんだん消えていく。
足、手、腹、胸、首、…………



最後に視界が閉じる。







そんな夢がみてみたい

(伊藤和浩)


PR

十人五百色


皆様こんにちは。リッこらへようこそ!
 今回執筆を担当しますのは文化構想学部1年、編集班の木村です。丁度このコラムを書いている頃は絶賛試験期間中ですがこういう時こそテンション上げていきますよ。うえーい!

 Re:ALL製作委員会が思い思いに語る本コラムですが、いくつか目を通していただいた方ならわかるとおり、その思いのたけは千差万別です。抽象的な話題から具体的な話題、自らの趣味・嗜好についてなどなど、製作委員の一員である私も正直なところ、これほどまでにトークテーマが分散するとは考えていませんでした。多種多様の強い個性が寄り集まってRe:ALL誌面完成のために力を尽くしていることを考えると胸が熱くなります。

 さて、突然ですが皆様は好きな「色」というのはありますか? これもまた個性の問題になりますから答えは幾通りも存在するでしょう。仮にこの色が一番好きというものがなかったとしても、たとえば赤色よりは青色の方が好きとか、今日は暖かいから明るめの色の服を着ようとか、この色はこの色合いのコーディネートに合わないとか、色の取捨選択は、経験があるはずです。子どもの頃にまで立ち返ってみればヒーロー戦隊であれプリキュアであれポケモンのバージョンであれレッドがいいグリーンがいい、ブラックがいいホワイトがいいとあれこれ言い合った思い出が誰にでもあります。色を介することで子どもは「選ぶ」ことを学ぶんですね。

 では、さらに問いを重ねます。皆様はどうしてその「色」が好きなのですか? ……今度の質問はかなり答えづらいはずです。何かしらの根拠を挙げようとしても、根拠といえるほど強い理由になるでしょうか。少し文章を引用してみましょう。

 「私たちはまた、身につける色で自分が何を必要としているかを表現する。たとえば、赤を着ている人は新しい愛を求めているか、体の耐久力の回復をはかっている。色を身につける前に、何を欲しているか自分に聞いてみてもよい。本当のところ何を望んでその色を着るのか?なぜ特定の色をひんぱんに着るのか?ある色への熱望は、言葉では表せないメッセージを伝える。たとえば、時間やエネルギーいっぱいで奮闘しすぎると、グレーを着たくなる。どんな心理状態で、またどのような願望があるかで、着用する服などの色がきまってくるのだ」(野村順一『色の秘密 最新色彩学入門』文春文庫、2005年)

 なるほど、今自分が灰色っぽい服を着ているのにも理由があるってわけですか!
 自分の性格・嗜好がそれこそ言葉に言い表せられないぐらい露骨に表れてしまうというのは面白いですね。すなわち、意識しようとしていまいと自分のなかの深層心理が表面化しているわけです。好きな色を確固たる根拠を持って説明できる人がどうして少ないのかがわかる気がしますよね。逆に特定の色が好きだという理由を話せる人は自分の深層心理を正しく理解したうえで、押し隠すまでもなく開示できる人だと。

 先の『色の秘密』の野村さんは、他にも興味深い本を執筆していらっしゃいます。この場を借りて紹介しましょう。『私の好きな色500』(文春文庫、2007年)という題の書です。ページをめくればそこに広がるは一面の色、色、色。200ページ弱の本文には思いつく限りの色とその解説文が記されています。解説文にはその色と調和しやすい色や、その色を好む人の傾向が事細かに書かれており、まるで心の奥底までを見透かされているようで目からうろこが落ちます。たとえば薄緑に似た「五月雨」色はパステルトーンカラーと相性がよく、これを好んで着る人は自己啓発に優れ、新しい世代に憧れる気質だそうです。
そして何よりこの本の醍醐味は、記されている色の名前の独創性! 「萌黄おどし」、「草千里」、「紅殻格子」、「すなけむり」は序の口、「鯉のぼりの泳ぐ空」、「紅葉の交響曲」、「小鹿の散歩」、「ミックスジュース」なんてものから「卵料理とパプリカ」、「お昼寝するチャウチャウ犬」、「レディーマクベスの夜」、「潮騒」と、想像を絶するような名前の数々。少なくとも私の周りには「卵料理とパプリカ」色が好きな友達は存在しません。「卵料理とパプリカ」色……赤と桃の中間色のようなこの色を、より身近な珊瑚色と呼ぶことはあるでしょう。ただ、やはり「卵料理とパプリカ」色と珊瑚色は違います。名付けられ、区別され、選択する余地が生まれれば完全に別の存在だからです。人の気持ちがみんな似ているから同じ表現でいいやなんて、それでは言葉が存在している意味がありませんからね。色も、それを表現する言葉も無限大です。

 総括すると、色の数だけ個性があるのではなく、個性の数だけ色があるということになります。だから、人は成長して好きな色彩が変わったり、その日の気分で色の好みが変わったりするのだと思います。機があれば自分の好きな色を好きな風に表現してみるのも面白いはずです。自らの好みを解釈し、選り分けて、少しずつ向き合ってみましょう。そうすれば身の回りのちょっとした彩りが増えていくこと請け合いですよ!


(木村 諒士)

大声で「好き」って言えますか


みなさんこんにちは。ついに私にもコラムの順番がまわって来てしまいました。
まっずいコーヒーを飲みながらこのコラムを書いています。文化構想学部・文芸ジャーナリズム論系2年の女です。

Re:ALL委員が各々の好きなモノについて、熱弁を奮っているこのWEBコラム。文字群が飛びかかって来そうですね。しかし、誠に残念なことに、私には声を大にして「これが好きだ!」と言いたいモノが思い当たりません。

たいていの人って、好きなモノくらいありますよね。私も20年間、世の中と人並みに向き合って生きてきたはずの一人の女です。コラムで書きたい内容がないからって、もちろん世の中に無関心に生きている訳ではないし、「好き」という感情を持ち合わせていない訳でもありません。
ミュージシャンで言えば、椎名林檎と吉井和哉が好きです。アイドルなら、道重さゆみが好きです。食べ物ならシメサバ、飲み物ならビール、お菓子ならグミ。皮製品や0.7ミリの油性ボールペンも好きです。まわりの人にも「好きだ!」という感情を、非常に分かりやすく垂れ流しにしています。ただ、「1番」が決められないだけなのです。「好き」における器用貧乏です。

しかし、せっかくの何でも書いて良いWEBコラム(たぶん)なのに、「器用貧乏なのでひとつに決められません。お伝えできる程のことも見当たりません」、というのではそれでお終いですね。それはちょっと寂しいですし、そういう訳にもいきません。ですので、みんなの言う「好き」とは、ちょっと手触り・耳障り(?)の違った「好き」を、腹をくくって(小声で)お話しようと思います。

器用貧乏というからには、私はそれなりに気が多く、たくさんの「好き」を持ち合わせています。その中でも、他人に伝えるのが憚られる「好き」がひとつあります。

「エログロ」が好きなのです。

文字通り、エロくてグロテスクなモノです。

文化構想学部という学部に在籍する以上、授業の先生や友人、先輩や後輩に、「好きな作家は?」と尋ねられることがままあります。そこで、「えーっとね、江戸川乱歩と谷崎潤一郎、夢野久作、舞城王太郎、三浦しをん、中山可穂……」なんていう怒涛のラインナップを、何の躊躇いもなく挙げてみたら、相手はどんな顔をするでしょう。そして、自分のことをどんな人間だと認識するでしょう。即刻、歪んだ性癖の持ち主だと確信されること間違いありません(少なくとも私の経験上は)。
まわりの人間の反応が気になる。引かれたらどうしよう。公にするのは恥ずかしい――。そんな、他人に伝えるのが憚られる類の「好き」なのです。

私は、好きな作家を聞かれたら、前述の作家たちの中に「恩田陸」「西加奈子」「小川洋子」などなど、適宜あたり障りのない作家を交えることにしています。相手にどう思われるか気にしているからです。20歳女性の自意識が垣間見える瞬間ですね。本屋のレジでお会計をするときも同様です。夢野久作と小川洋子、といったかんじの組み合わせでカモフラージュするのです。
(今挙げた3人は実際にとても好きなので、)「カモフラージュ」と言うと若干の語弊があるように思いますが、「なんだかヤバそうな本を買い込む人」という印象を持たれるのを避けるために、一緒に買うのです。中和です。

だって、「エログロ好きなんだよね」って前面に押し出してくる女の子って、そもそもどうなんですか。
世の男性諸君。女の子に「会田誠展、一緒に行こうよ!」と誘われたとしたら、「……」となってしまいませんか。私だったら、なってしまいます。私が男性だったとして、東京タワーで女の子とデートしているときに、彼女が「ねえ! ここ(ろう人形館)入りたい!」とか言い出して、嬉々として中世の拷問の様子をかたどった蝋人形を眺めていたりしたら、これまたきっと「……」となってしまいます。紳士淑女の皆様、どうですか。迂闊に「エログロ好き」を提唱しないほうがいいですか。しないほうがいいですよね。

私は、自分の中に「世間体」という概念が在る以上は、大声で「エログロ好き」を提唱しないと思います。この感情は、AVやアダルト雑誌を作る会社に就職が決まって、親にうまく言い出せず悶々としている人の心境と近いものだ、と勝手に確信しています。AV女優さんって、堂々と「ママ! 手に職つけたよ!」とか言えるんですかね。常々疑問に思っています。まあ、AV女優さんはともかくとして、私は親に性的事柄を話せる人間の神経が理解できません。私なんて、中学時代に姫野カオルコの「ツ、イ、ラ、ク」を読んでいるのを母に咎められて以来、親の前で性の匂いを醸し出さないよう細心の注意を払っているというのに……。

唐突ですが、私はBLに耐性がありません。それと同じように、エログロに耐性のない人間も、世の中には大勢いるでしょう。私は、自分の「好き」を他人に押し付ける気なんてさらさらありません。ただ、こういうモノが「好き」な人もいるのです。エログロを許容してほしいとは言いませんが、こういうモノを好きな人もいる、ということを許容して欲しいのです。それだけです。

大声で言えない「好き」も存在するし、大声で言わなくても「好き」は存在します。

収拾が付かなくなってきたので、強制的にシャットダウンします。ちなみに私のPCのデスクトップは道重さゆみです。エログロ画像ではありません。

<---以下エログロ---!>
最後に、少しだけエログロの具体的な話をします。興味のある方だけ読んでください。

*ろう人形館
http://www.tokyotower.co.jp/foottown/3f_01.htmlhttp://www.tokyotower.co.jp/foottown/3f_01.html
コラムではエログロの話で登場させてしまいましたが、エログロのろう人形しか置いてない訳ではありません。ビートルズやマリリンちゃんもいます。なんと写真撮影OK!エログロの好き嫌い問わず、ぜひ行ってみてください。私は行きたい。

*谷崎潤一郎
http://blog.livedoor.jp/seibundoh_wasedasta/archives/4294818.html

ぐぐったらなんと早稲田駅前の成文堂書店のブログが。
フェティシズム小説集、マゾヒズム小説集、犯罪小説集というラインナップです。しかも、マゾヒズムの表紙絵は、かの有名な中村佑介さんによるものですよ。素晴らしい。でも、気になることが一点。フェティシズム小説集の帯の「もっといけないことおしえてほしい?」ってコピー、若干違うのではないだろうか…。
余談ですが、書店ではなくヴィレヴァンで購入すると、サブカル系こじらせ文学女子(?)を演出できるかもしれません。

*Dir En Grey
http://www.direngrey.co.jp/
1997年結成のヴィジュアル系バンドです。楽曲は一貫して「痛み」をテーマにしており、MVがグロテスクなこともしばしば。放送規制がかかったり、YouTubeで不適切な動画として報告されたりしているのを見ると少し切ない……。けれど、曲によっては本当にグロテスクなので、耐性のない人は控えるべし。エログロがどうこうだけではなく、ミュージシャンとしても好きです。推しメンはベースの敏弥です。
▼たぶんこれが1番話題になったMVかな。閲覧注意
http://www.youtube.com/watch?NR=1&v=5ZZsuJw3Ruc


ここまで書いてふと思いましたが、個人的にエログロのモチーフは女の子のほうがいいですね、断然。だって、綺麗ですもん。別に、男性でもいいっちゃいいんですけどね。この辺はアイドル好き(弱ハロヲタ)と深く関わっていると思います。でも、我らのアイドル道重さゆみに傷をつけるのは、さすがに勘弁してください……。

エログロが好きだと打ち明けるのは、親しい間柄の人間に限られていましたが、このコラムで公にしたおかげで、当分は友人たちにも、もちろん一般の方にもエログロの話をしたりしないと思います。おそらく、こんなに公にエログロの話をする機会など、人生に1回あるかないかでしょう。稀有な体験でした。もう黙ります。小声だろうと大声だろうと、金輪際エログロの話は致しません。自意識!

(小室南美)


きゃわわわあ



美しさも長くは続かない。
「お小姓の命は長うて三年」と昔の人は言った。
小姓はちょうど現代の男子中高生と同じくらいの年齢の子にあたる。小姓を巡って国を滅ぼした大名すらいるくらい。たった3年のために国をかけてしまう。私はそんな大名たちに共感してしまう。好きだから。

男子中高生が好きだ。
「おうちに来てくれる身近な王子さま」として、佐川男子が流行った。
男子中高生は言うなれば、「道端で出会える王子様」だ。
王子様とは違うかもしれない。王子なんて使い倒された表現を用いるのは彼らに失礼というものだし、彼らの魅力を伝えきれない。


二次元の男子中高生も好きだが、それ以上に三次元の男子中高生が好きだ。


エレベーターのボタンを押してもらえれば一日幸せに過ごせるし、会う人会う人に自慢してしまう。
ドミノ倒しになった自転車を一緒におこしてくれたときは、一生分の幸せを使い果たしたのかと本気で疑った。
電車で立っている男子中高生には席を譲ってあげたくなる。
公共の場で騒いでいる男子中高生を見かけては「お行儀悪いな」とは思うけれど、「元気があってよろしい」とついつい許容してしまう。
お店の前で「金ねぇよー」と騒いでいる子を見ては、奢ってあげたくなる。
そうやって甘やかすのは愛なの?と言われたこともあるけれど、愛だ。
祖父母の孫への甘やかしだって愛だ。
甘やかしたくなる。可愛いから。


小学生にも大学生にもない彼らの魅力はなにか。
制服効果は大きい(小学生でも制服を着ている子はいるがここでは割愛します)。
学ランも可愛い。ブレザーも可愛い。ジャージも可愛い。
春の初々しい姿から、夏のズボンたくしあげ、秋のカーディガン・パーカーときて、冬のマフラー。四季を通して素晴らしい。四季をこれほどありがたいと思うことがあるだろうか。いや、ない。
特に秋口のカーディガン・パーカーはおすすめだ。学ランやブレザーからカーディガンやフードがはみ出している姿は本当に可愛らしい。
人類の至宝と言っても差し支えないだろう。
ただ気になるのが、冬場でもコートを着ていないのはともかくとして、Yシャツ一枚だったり、学ラン開け放してYシャツのボタンもあまり留めていなくて、という子達がいることだ。
サービスしてくれるのは嬉しいです。でも、みんなが風邪ひかないか心配です。寒いから暖かい格好した方がいいと思います。咳をしている子を見かけるとのど飴を買ってあげたくなります。どんな格好してもみんな可愛いから大丈夫です。私のおすすめは、ダッフルコートです。防寒機能だけではなく、可愛さも兼ね備えた最高の装備と言っても過言ではないでしょう。制服との組み合わせにおいては最強だと思います。

ジャージで帰るのは禁止されているから一度制服に着替えるのだけれど、だるいから塾に行く時はまたジャージに着替えるみたいな、よくわからない行動も可愛い。
ジャージに着替えるなら私服に着替えたらいいじゃない……!!
私服ももちろん好きです。大好きです。
結局、男子中高生が着ているということが重要なのだ。
何着たって可愛いんだから!!


馬鹿なことをしている彼らを見ているのが好きだ。
路上でテニスラケット振り回してみたり。友達が向こう側で待っているからと赤信号を無視したり。
どうせすぐに会えるんだから、信号くらい待ったらいいじゃない……!!
危ないからやめようね!と思うけれど、「まぁいいかな」と思わせてくれる何かを彼らは持っているのだ。歩行者や車が気をつければいいか、と思ってしまう。
馬鹿なことをして許される最後の機会が中高生なのだろう。
大学生にもなって路上でラケット振り回すのは許されない。公共の場で騒ぐ大学生はただのくず。
でも中高生なら「中高生だから」と許されてしまう。
すごいよ。


真剣に頑張る男子中高生が好きだ。
甲子園のDVDを買った。
思わず涙してしまうエピソードが多く、さすが高校野球だ。
そこに至るまでの、彼らの苦労や頑張りを思うと、入場行進の時点で泣きそうになる。
きっと同じエピソードがプロや大学生にあっても、「いい話ですね」で終わってしまう。

勝っても負けても涙が出るのが高校野球。「よかったね」でも泣けるし、「頑張ってきたのにね」でも泣ける。ちょっとしたインタビューでも不意に泣かされることが多々ある。
甲子園には魔物がいるのだなと思う。
高校生の可愛さこそ魔物だろう。
野球だけではない。
年末年始は高校スポーツの宝庫だ。
ラグビー、サッカー、バレーあたりはテレビで放送されるが、他はあまり放送されないのが大変悔やまれる。中学生に至っては全く放送されていない。
メディアは、他のスポーツも高校野球と同じくらい大きく扱って欲しいものですね。
スポーツでは、特定の学校は応援しないと決めている。
みんな高校生だから。みんな大好きだから。みんな頑張って欲しいから。


可愛らしく愛すべき彼らではあるのだが、その輝きは中高6年間限定という非常に限られたものだ。だからこそ、愛おしいし、ずっと見ていたいと思えるのだ。
稚児への一種の信仰に見られるものと同じ。
造花よりも生花が美しいのは散ってしまうから。
儚いから彼らは美しいのだ。


(立木 栞)

円城さんのこと



好きなものについて思い思いに語るこのWebコラムですが、語れるほど好きなものがない、ということに最近悩まされています。「知れば知るほど、語れることが増えていく」。これが理想なのかもしれませんが、いかんせん対象物を好きになるだけで終わってしまうのです。
端から見れば些細な、しかし至って深刻なこの問題について、好きなものの全貌を知ってしまうのはもったいない、と思ってしまう性分を原因の一つとして挙げる説もあります。好きという感情はなるべく長期間持続させたいし、対象物の消費といった楽しみが待ちうけていることにある意味、保険をかけているので、いつかいつかと小出しにしているうちに冷めてしまう場合があるのです。「課題が終わったら」や、「自分にご褒美」などの文言に代表される戦略的禁欲が生む悲劇という見方もできます。
どのみち全貌を知らなくてうまく語ることができないのなら、いっそのこと対象物自体がよくわからない、詳しく知ろうとしてもたぶんよくわからない。そういうものに照準を合わせてみます。「よくわからなさ」を愛として語ることにします。
 というわけで前置きが長くなりましたが、
私にとっての「好きなもの」として今から語るのは円城作品、および作者本人についてです。
ご存知の方も多いと思いますが、芥川賞作家の円城塔さんです。
作者本人を「もの」に分類していいかどうかは微妙ですが、「小説製造機械になるのが夢です」(本人談)とのことですし、語弊はないだろうと思われます。


「わからん?!円城塔」

円城作品については、

「よくわからない」

この一言に尽きます。
ふつうの小説に比べて圧倒的に会話が少なかったり、祖母の家の床下から大量のフロイトが出てきたり。きちんと意味をつかみながら通読できたためしがありません。よくわからないので、一つ一つの作品について、ストーリーの側面からの言及は割愛します。
ただ、よく分からないなりに、とりあえず流されるままに文字列の上に視線を滑らせ続けていると、はた、と目をとめる瞬間があるのです。イメージが結ばれる瞬間があるのです。その一節に出会えただけで、それ以外の意味不明な文字列を追ってきた意味があると思えてしまいます。
作品中の独特な文体や言い回しには中毒性があることが知られています。円城さんの小説作品と、論文やコラムとではまた色合いが違っているのですが、後者は現実のことが書かれていてもどこかそっけなく、しかし心くすぐられる無機質さがあるのです。
そして、これは多くの円城作品に共通して言えることだと思いますが、〆方が最高に格好良い。物語そのものを含んだ物語は、収束するときにこそ素敵な仕掛けを残してくれます。こうした物語生成の妙を突く作品としては、真っ先に『屍者の帝国』を挙げたいと思います。


「円城塔の『悪ふざけ』」

早逝した作家・伊藤計劃と円城塔の共著『屍者の帝国』は、死体を働かせることが可能になった(とされる)、「フランケンシュタイン以後」の19世紀末を描いた作品です。「屍者の王国」の極秘調査にはじまる諜報員ワトソンの冒険が語られるのですが、語り手は記録係として彼に随行する一体の屍者(蘇った死者)です。第三者によって書かれる形式であることと、この作品自体が、書き継がれて完成を迎えたものであること。その二つの要素が最後に共鳴しあい、冒頭から物語の奥深くに仕掛けられていたメッセージに気づかされる瞬間、作品のもうひとつの姿が読者の目にさらされる瞬間は圧巻です。



「作家が遺した作品を、盟友が書き継ぐ」ことは、追悼とも言えるでしょうし、一見美談としてまとめられがちな構図ではあります。しかし、この『屍者の帝国』の場合、そういったことは本来意図されていたわけではなかった。それをここに強調しておきたいと思います。
「死者が動く話を病室で書いていた本人が死んでしまった。ならばその悪ふざけを続けていこう」というのが円城さんのスタンスでした。「追悼などというものではなく、SF界の冗談の特性、“人の悪さ”を生かそうとするのが狙い(毎日jpインタビュー)」だったそうですが、悪ふざけと言いつつも、誰かが書いていた、書こうとしていた物語を動機まで引き受けて書き継ぐことは、物語と真剣に向き合っていなければできないことだと思います。その結果として、上で触れたようなあざやかなトリックを見せてくれる。そんなことをされると、またふたりで共謀して何かやらかしてくれるのではないか、とあらぬ期待をしてしまったりもするのです。



「『小説製造機械』の素顔」

 インタビューは、作品からは読み取れない作者の素顔を知ることができる場所、と言ってもいいと思います。
インタビューでの円城さんはとてもかわいい。作品が作品なので、インタビューでやっと作者の顔が見える。そんな印象もあって、「小説製造機械」ではなく生身の人間が作品の向こう側にいることを認識させられつつ、作品の難解さとインタビューでの「ゆるさ」とのギャップに惹かれてしまうのです。
 

それでは、個人的に宴もたけなわですが、このあたりで終わりたいと思います。「好きなものを語ることができない」あいだは対象物を好きとは言えないのでは、という懸念と、それでも一度にすべてを味わいたくない、という欲求。相反する二つの思い。最高にどうでもいい葛藤ですが、そんな中でも「知れども知れどもよくわからない、語ることが難しい」ものを好きになって、「よくわからない」ことそのものを、「語ることができない」ことそのものを、こうして語ることができてよかったと思います。

(祖父江愛子)


カレンダー

04 2024/05 06
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31

バーコード

ブログ内検索