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リッこら

Re:ALL製作委員会は一枚岩ではありません。日々委員どうしが小首を傾げ合いながら 冊子を作っています。彼らは一枚岩というよりはむしろ、ガラクタの山のようです。どんなガラクタが埋まっているのか。とにかく委員それぞれが好きなものを書きたいということで始めたコラム、気が向いたら読んでやって下さい。ひょっとしたら、使えるガラクタがあるかもしれません。

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素晴らしき映画体験

 大学生になってから、映画をよく観るようになりました。
 今まで空いた時間にすることといえば読書一択だったのですが、最近は気づけば洋画(もしくは洋ドラ)を観ながらソファーでゴロゴロしています。今日もこのコラムを書き終わったらTUTAYAに行くつもりです。わくわく。
さて、今まで観てきた映画を振り返ってみると、自分はいわゆる「友情」だの「相棒」だのという要素が含まれている作品ばかりに手を出してきたように思われます。作品を通して「絆のかたち」を描く映画が好きすぎて、無意識のうちに引き寄せられていたようです。
ということで。突然ですが、いち押し映画の紹介をしたいと思います。勿論作品の好みには個人差がありますが、参考までにどうぞ。


◆最強のふたり
――ありえないふたりが出会い、やがて最強の友になる



 事故で首から下が麻痺した大富豪・フィリップは、自身の介護人を選ぶ面接でうんざりしていた。みな一様に彼に同情するか、単に金目当てであったからだ。そこで不採用の証明書でもらえる失業手当のために面接に来たという、スラム街出身の黒人青年・ドリスと出会う。彼の障害者に対して配慮の無いふざけた態度を新鮮に感じたフィリップは、ドリスを採用する。その日からふたりの新しい生活が始まった。正反対のふたりの世界は衝突し、やがてユーモアに富んだ最強の友情が生まれる。感動のノンフィクション作。

 誰もが腫れもの扱いするフィリップの障害を、ドリスは気にもとめません。むしろそれをブラックジョークでからかってみせる配慮の無さはいっそ清々しく、彼の影響でフィリップと外界を隔てる頑丈な壁は徐々に崩れていきます。真っ先に目に入ってきてしまう障害者としてのフィリップの姿と、その奥にあるユーモアにあふれた彼の魅力的な本質。乱暴で不作法なドリスの外面と、不器用な思いやりのかたち。さまざまな思いが交錯するストーリー展開は圧巻です。


◆ノッキン・オン・ヘブンズ・ドア
――天国じゃ、みんなが海の話をする



 脳腫瘍のマーティンと骨髄腫のルディは共に末期患者。入院先で同室になったふたりは、偶然見つけたテキーラを飲み交わす。そこでルディがふと自分は海を見たことがないと告白すると、マーティンは「知ってるか?今天国では海の美しさについて語るのが流行ってるんだ。海を見たことがないお前はおいてけぼりにされるぞ」と彼をからかい、海岸線に沈む夕日の美しさを語った。その後ふたりはパジャマ姿のまま病院を抜け出し、車を盗み、海に向けて出発することに。が、実はその車にはとあるギャングの大金が積まれていた。繰り広げられるカーチェイスとコミカルな逃亡劇、その裏にひそむ虚無と死。生を見つめる物語。

 車と金を盗み、間抜けなギャングと警察をかわしながら海へと旅するふたりの様子は、コミカルなタッチで描かれています。不良気質で思い切りがいいマーティンと、温厚で小市民的なルディの掛け合いも、みていてくすっと笑えるほどです。ふたりのすぐそばに「死」があるのにも関わらず、物語が軽快で爽やかなのは、互いにその運命を受け入れ切っているからでしょう。ラストシーン、海へと続く一本の道は、海岸線の向こうにある天国にすら続いているように感じました。ふたりの人生の最後でひときわ輝くの海への旅路は、言葉にするのが勿体ないほどに、圧倒的なエンディングを迎えます。


 他にも紹介したいものはたくさんありますが、今回特に大好きな2作品をチョイスしました。素晴らしい映画体験は人生の財産ですよね!私は個人的に、まずこの2つをおすすめしたいです。
コラムを書いていたらまた観たくなりました。予定通りTUTAYAに行ってきます。
それでは、ありがとうございました!

(近江 由圭)
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帳活のすすめ


 年も終わりに近づいてきているある日、文房具屋、書店、雑貨屋などの店頭にずらっと並び立つ手帳やカレンダーの数々を見ていると、何か急かされているような心持ちに襲われることがあったりなかったり。それは、もう今年も終わるな、という焦りとか、一年が怒涛のように早かった、だって今年の初夢を見たのがまるで一週間前のことのよう、といった月日に押し流されてくことへの驚きとかがごっちゃになった感情です。
 それだけでなく、これからやってくる新しい年が、一冊の本の中にまるっと入っていることへの不思議さのようなものも北風とともに心をかすめます。新しい手帳の抱え込む圧倒的な真っ白さは、よく考えたら怖いもののように私には思えます。なぜならその余白は、これから埋められ続けるであろうことを無条件に信頼しているものだからです。手帳の 機能からしてみれば当たり前すぎる話ではあるけれど。よもや断絶があろうとは思いもしていない純白さ。
ここでいう断絶とは、なにも「世界が来月終わったらどうしよう」的な不安から生まれる妄想に基づくものだけではありません。選んだときのままの気持ちで一年間、使い続けられると信じて人は手帳を買うけれど。それはほんとに合ってるの、と真っ白さが問いかけてきているような気がします。
 たとえば途中で手帳のデザインに対する好みが変わるかもしれないし、なぜか急に意識が高くなった結果、一週間で見開き2ページじゃ足りないという事態が起こるかもしれない。人の細胞が一定のスパンで入れ替わることを考えると、昨日と今日の自分がまったく別のものであってもおかしくないのに、人は手帳を買うとき、昨日と今日が連なる一冊のはじめとおわりに、はるか遠く過去の「私」と、はるか遠く未来の「私」の同一性を見ようとする。
 ただ、もしかすると、「私」が手帳を規定するのではなく、手帳が「私」を規定する、といったほうがいいのかもしれません。手帳は主に予定を立てるのに使われるため、人に未来目線であれこれ思案させ、現在をどう過ごすかを決めさせるものです。手帳に書かれた「私」が現在の「私」となるのなら(そんな都合のいいことは現実にはめったに起こりませんが)、「私」は手帳に規定される存在ともいえるのではないでしょうか。



 一年間つきあう相手だからこそ、手帳を選ぶときには気合いが入ります。たしかに、今はスマホの手帳アプリもあって便利な世の中なので、紙の手帳を持ち歩く必要性は以前と比べて薄れてきているのではないかと思います。けれども、その気になれば年ごとにデザインもメーカーも変えられる「紙の手帳」を前にして、今年はどんな手帳を使おうかと考えをめぐらすひとときも楽しいものです。
 紙の手帳にはさまざまなタイプ、デザインのものがあります。ここで私が使ったことのあるもの、これから使ってみたいと思っているものをとりあげてみたいと思います。

■DAILY PLANNER EDiT(Mark’s)
http://marksdiary.jp/edit/index.html
「EDiT NEW LiFE」というコンセプトのもと、「人生を編集する」という視点を提供してくれる手帳です。「使い方はあなた次第」とHPに書かれているように、中身は一日1ページでたっぷり書きこめる、ゆとりのある構成になっています。計画を立てるだけでなく旅行記を書いたり、絵日記をつけたりなど、使い方はさまざま。

 2013年度はこのB6版にお世話になりました。行った美術展のチケットを貼ったり、読んでみたい本のリストを作ったり、日記を書いたり。ほとんど事後的にしか使っていない気もしますが、「使い方は自由」なので、たとえ予定を立てる機能を生かしていなかったとしても、それでいいのです、きっと。

■ほぼ日手帳(ほぼ日刊イトイ新聞)

http://www.1101.com/store/techo/

 コピーライターの糸井重里さんが主宰するwebサイト、「ほぼ日刊イトイ新聞」から生まれた手帳。LOFTの手帳部門では9年連続No,1の売上を誇るそうです。全95種類のカバーの中から、自分の好きなデザインを選ぶことができます。一日1ページの文庫本サイズ。持ち歩きに便利な大きさです。

 超有名なので、使ってみたいなと思いつつその価格設定になかなか手が出ない(カバーと本体セットで安くても3500円くらい)手帳です。カバーにもカードポケットがついていたりと、これ一冊持ち歩けば安心な感があります。「ことしのわたしは、たのしい」をキャッチコピーにかかげるほぼ日手帳も、「思い思いに使う」ことをすすめています。



 まだ何も書かれていない手帳の真っ白さ。そこに、「使いこなせないかもしれない」という不安をみるのではなく、手帳に規定されない自分だけの使い方、自由な使い方をみつけていくことが、手帳とともに一年をすごす楽しみなのかもしれません。

私も来年こそは、三日坊主にならない「思い思いの使い方」を見つけたいものです(という願望こそが、新しい年を前にした「12月病」などとよばれうるものの作用によるのだという説は、ひとまず置いておいて)。


祖父江愛子

Pas de deux de la vie



こんにちは、2度目まして。デザイン局3年のマツモトです。
同期や後輩のみんなのコラムを読んでいて胸があったかくなり、衝動的にポメラに向き合っています。文章ってむずかしいね。私はついぞ記事を一枚も書かず引退をむかえようとしています。それも我が道よ。

はてさて、前回テニミュというサブカルの極みについて熱く語ってしまったわけですが、今回はバレエについて書こうと実は前々から考えておりました。というのも、私の一番はやはりミュージカルで、ブロードウェイとかオフブロ系作品に興味を持ってしまいがちなのですが、近頃バレエがとてもアツイということに気づいたからです。学部の授業がきっかけですが、実際にスワンレイクをみて、ジゼルをみて、くるみ割り人形をみて、どれもこれも本当に素晴らしく、目からウロコなのでした。台詞がなく舞踊だけですべてを表現するので、演劇・ミュージカル・オペラ等のどれとも違います。初心者にとっては厳しいようですが、事前に作品の内容を把握して、曲を把握して、マイムを把握して、ダンサーを把握して……とかなんとかちょっとでもやってからいくと、そりゃあもう100倍楽しめること請け合いです。前衛的なモダン・バレエなんかだとまた別ですよ。あくまでクラシックな、物語のあるバレエにおいては、そういった楽しみ方ができます。ちなみに、モダン・バレエもとっても素晴らしいですよ! 最近だとバランシンのニューヨーク・シティ・バレエが来日していますが、もう少し安ければ行けたのに、という心境です。来日公演は値段が高いのがとにかくネックです。日本のバレエ団の公演なら学生料金だと割とお手頃なのですが……。興味のある方は是非ググって、足を運んでみてくださいね。

さて、毎号締め切り前に海外に逃亡し局員からたくさんの恨みを買っていることで有名な私でありますが、この夏3度目のパリでオペラ座(オペラ・ガルニエ宮)を存分に堪能できたことも、こうしてバレエというテーマを選んだ理由のひとつです。バレエの歴史は主にフランスとロシアから始まっていくのですが、オペラ座バレエ団はフランスで最も古く由緒あるバレエ団体であることで有名です。ロシアでいうところのマリインスキー・バレエ団とともに、世界二大バレエ団といっても過言ではありません。オペラ座にはバレエの歴史を知ることができる博物館や図書館もついているのですが、たくさんの展示衣装に目移りし、イヴサンローランの衣装ラフにドキドキし、調子に乗ってベストバレエ曲集に散財し、まさに夢のような時間でありました。ほんと、1日くらいは余裕で滞在できますね。ベルばら好きの友人はヴェルサイユ宮殿でなら数日は過ごせると言っておりましたが、オペラ座もそんなレベルであると思います。フランスに行くことがあれば要チェックです。

と、ここからは蛇足ですが、バレエに関してはプリンセスチュチュというアニメも素晴らしいので触れさせてください。バレエって女子の憧れでもありますから、日本では意外とモチーフにされた漫画作品は多いんですが、(山岸凉子『舞姫 テレプシコーラ』などは名作です! )アニメはなかなかないんですよね。そういう意味ではほぼ唯一といっていい、珍しい作品です。その上、プリンセスチュチュはバレエの世界観がギュッと凝縮されたような内容であるため、私のようなバレエ初心者系アニオタには入門に非常に役立ちます。毎回違うバレエ作品がモチーフとなっていて、このアニメを見るだけで様々な有名作をカバーできてしまうのです。~話が眠れる森の美女、~話がコッペリア、といった感じですね。音楽もモチーフに沿ってチャイコの名曲などふんだんに使われております。とにかく何が言いたいかというと、あひるちゃんかわいいです。
すこしずれますが、もしシルク・ドゥ・ソレイユなどのショーを好きな人がいましたら、カレイドスターというアニメもオススメです。地味だけど、すごい、サーカスのアニメです。シルク・ドゥ・ソレイユは最近映画をやったり、マイケル・ジャクソンの追悼でワールドツアーやったり、割と活動的ですよね。日本公演はぶっちゃけ眠いと私の敬愛するブロガーさんがおっしゃってたのでoh……と思っていましたが、そういうのは体験してみないとわからないものです。Cirque du Soleil、直訳すれば太陽のサーカス。ちょうど来年はオーヴォが日本上陸しますし、時間があれば行ってみるのもいいですね。また新しい発見があるかもしれません。

好きな舞台をみたり、アニメをみたりしていると、世界の文化と日本の文化が近づいていくような気がして、私は嬉しくなります。舞台が好きな理由は、やっぱり歌があることかなと思ってたんですが、バレエをみたあとではもう、それだけじゃないですね。場所を変え、言葉を変え、人を変え、それでもつながっていく気がするからです。ちなみに、今私の一推しはnext to normalというミュージカルです。こんなコラムまで読んでくれてこの作品を見てる人、入るしかないですよ! 新入局員、ドシドシ。

(文責:松本彩香)


「19才」

スガシカオの「19才」を聴いていた頃、私は12才だった。その頃の私にとっては、19才はもちろん15才の先輩ですら大人だなと感じたものだった。幼い頃の1年には、大きな差があった。あの頃に抱いた「先輩は大人」イメージは強烈らしく、私の中には未だに15才の先輩が大人として君臨している。15才なんて幼いと、頭ではわかっているのに。

 私は19才になった。あの頃に思い描いていた19才とは大分違うがそれでも19才だ。「十代最後」という事実が重くのしかかる。十代は特別だ。なかでも15才は特別だ。
「15才になりたい」は19才になった私のメインテーマの一つである。外見も中身も名実ともに15才になりたい。

 15才になるためにはどうしたらいいのか。
 まずはだかる敵は戸籍だ。いくら私が「15才」と言い張ろうとも、戸籍が私を「19才」とする以上、私は「19才」だ。戸籍の年齢は変えられないのか。Googleで検索してみる。「戸籍 年齢変更」というキーワードが予測に現れるあたり、みんなも年齢変えたいらしい。その願いもむなしく、よほどの事情がないと生年月日は変更できないらしい。当然といえば当然で、容易に生年月日が変更できるようでは行政が立ち行かない。教育やら選挙権やら年金やら、年齢で区切られているものは多い。
 戸籍を変えるのは非現実的らしい。仮に変えられたところで、永遠に15才でいるためには、毎年変更手続きをしなければいけない。非常に面倒くさい。
 仕方がないので、15才を名乗れるだけの人間にはなりたい。
 15才だと言えば15才に見られるから、外見はよしとしよう。
問題は中身だ。15才の頃、何を考えて生きていたっけ。当時の日記を読み返す。大半の内容が、今も変わらない「2次元」である。今も昔も2次元に重きを置く生活は変わっていない。そして、ちらほら出てくるのが思春期ネタである。ネタ、と言ってしまうと当時の私に怒られてしまいそうだが、19の私が読むとネタとしか思えないような話なのだ。人間関係に悩んだり、反抗期だったり、些細なことをいつまでも気に病んだり 。過ぎてしまったことは、些細だと思えることが多いがそれが思春期の悩みには顕著であるように思う。19の私なら放っておくだろうことを15の私は延々と悩み続ける。
 これが15才。悲しいかな15の思考が私にはできなくなってしまったらしい。思春期は「子どもから大人になりかける」時期らしい。それなら今の私も十二分に思春期のはずなのに。どこで私は15の思考ができなくなってしまったんだろう。
 15才にこだわるのは、15才が十代の中でも愛おしいからである。12才までは幼すぎる。13、14才は中学二年生というまた特殊な時期だ。嫌いではないが。16才以降は薹が立ってしまっている。15才の、まだ楽しい生き方が完全にはできていなかったところが愛おしい。15才の、「子どもから大人になりかける」時期なんて言いつつ全くの子どもであるところが愛おしい。15才の、まだポテンシャルがあるところが愛おしい。

 十代も残すところ3ヶ月をきった。なにをしよう。15才にはなれないが、17才にはなれる気がする。17才。生きやすいように生き、でもまだ18才にはなれず自由さに欠ける。15才には及ばないものの、絶妙である。だが、戸籍上は19である私は、23時以降も出歩けて、18禁の商品も買えてしまう自由さを得てしまったし、捨てることもできない。
そんな自由さ を得たのに、酒・たばこ・ギャンブルはまだ禁止(パチンコは可)。19才。17才と似ている境遇のはずなのに、決定的にどこか汚い。なるほど17才教(※)が栄えるのも頷ける。19才は実は十代ではないのかもしれない。

 そういえば15の頃は、早く大人になりたかったっけ。

(※)17才教…声優・井上喜久子を教祖とする組合。入信すると「17才」を名乗れる。

廃墟ツーリズム


 立ち入り禁止の看板の脇をすり抜けること。軋む廊下を踏みしめて薄暗いほうへと進んでいくこと。かつてそこにいた人たちの記憶をたどること。

 廃墟はそこを訪れるものに強い郷愁を思い起こさせます。いや、思い起こさせるだろうと想像します。なぜなら私は廃墟に行ったことがないからです。
 使われなくなってから、管理されることもなく打ち棄てられた建物や施設を廃墟と呼びます。人の手を離れているように見えるからと言って、廃墟に勝手に立ち入ってもいいというわけではありません。廃墟のほとんどは私有地のため、許可なく上がりこんだ場合は不法侵入となってしまいます。
 サブカルチャーが隆盛した90年代以降、廃墟マニアと呼ばれる人々が廃墟を訪れ、ネットに廃墟の写真が載るようになり、さまざまな関連本も出版されました。一般人のHPやブログをきっかけに廃墟の写真に魅せられるようになった私は、いつか廃墟を訪れることを夢見ていました。それはもう真剣に。高校の昼休みには、友達とネット上の廃墟写真を見ながら暗い笑いを浮かべていました。それが法の下では叶わない夢だったと知ったときの衝撃たるや。ハタチになったらそっちに行こうと約束したのに!

 そんなわけで現実にはまず訪れることのできない廃墟ですが、例外もあります。長崎県にある端島(はしま)、通称「軍艦島」。海底炭鉱によって栄えたこの島には、多くの労働者が暮らしていましたが、主要エネルギーが石炭から石油に移行するにつれて衰退。最盛期には東京特別区の9倍ほどだった人口も、1974年の閉山時には2000人にまで減少し、現在は無人島となっています。



 老朽化が進んでいるとはいえ、集合住宅や学校などの建物がほとんど当時のまま残されているこの島は、廃墟マニアの間では有名だったそうです。長いあいだ安全上の問題から上陸が制限されていましたが、2009年以降、観光客の上陸と一部施設の見学が許可されるようになりました。テレビや雑誌でもたびたび特集が組まれていますね。
 島全体が廃墟、いわば廃島であるこの軍艦島。そんな島への立ち入りが許可されただけでも驚くべきことですが、さらに凄いのはGoogleストリートビューで立入禁止区域を含む島の全体が公開されていること。


 建物の外壁はひび割れ、剥がれ落ちた壁やガラスの破片などがいたるところに散らばっています。窓枠の形に切り取られた室内の薄暗さと、青空とのコントラストが印象的です。集合住宅らしき建物の屋上には、真っ白な花が咲き乱れていました。これらすべてが無人の島の光景だということを考えると切ないような懐かしいような、はるかな気持ちに襲われてそわそわします。
 軍艦島上陸ツアーも盛況で、毎年多くの人たちが訪れています。なぜ廃墟はこんなにも人々を惹きつけてやまないのでしょうか。その答えを考える前に、軍艦島とその他の廃墟との差異を指摘しておかなければなりません。
こうしてストリートビューで擬似的に上陸と探索が可能になり、部分的とはいえ観光客にも解禁された軍艦島は、明らかに通常の廃墟とは違っているのです。まず、立入が全面的に禁じられた通常の廃墟とは異なり、定められた区域なら自由に見て回ることができます。また、有名になったおかげで、軍艦島を訪れる人々の層は、廃墟を扱った書籍やHP、ブログなどを中心に情報を入手していた廃墟マニアだけでなく、日本全国の一般の人たちにまで拡大しました。さらにこの島を世界遺産にしようとする動きも活発で、軍艦島は「九州・山口の近代化産業遺産群」の一部として、世界遺産暫定リストに加えられています。軍艦島は今や観光地化されているのです。
 受け継ぐべき遺産となった廃墟は、はたして廃墟であると言えるのでしょうか。その定義に立ち返ってみれば、管理する主体を失い、時の流れに身を任せた建物こそが廃墟と呼ばれるものでした。放置され、ただ朽ちていくだけの存在としてあるはずだった廃墟と、景観や環境の保全が義務付けられる世界遺産は異なるものではないでしょうか。

 廃墟というと、死んだ建物であるかのような印象が強いと思います。確かに、用済みになった建築物なのだから、今もなお使われている建物とは違いがあるはずです。しかし、時が止まったようである廃墟にも、自然に朽ちていく中で流れていく時間があるのです。時間の経過とともにあるという点で、廃墟は生きていると言えるのでしょう。解体されるその日まで、廃墟はひっそりと生き続けます。逆に遺産として現在の姿を留めようとしたなら、何らかの形で手を加えようとしたなら、そこに流れている時間も一緒に止められることになります。時間が止められることは死と同じであると言ってもいいかもしれません。
 ここで問題にしているのは軍艦島を世界遺産に登録することの是非ではありません。登録すべきかすべきでないか、ということではなく、廃墟に時間が流れていることが、さきほどの問いにつながるのではないかということを記しておきたいと思います。
 すなわち、なぜ少なからぬ人々が廃墟に魅せられるのか、という問いの答えはここにあると言うことができるはずです。時間の経過が目に見える形で現れるとき、そしてそれらが朽ちていくただ中にあると感じられるとき、私たちは死んだように見える建物の中にも確かに、とてもゆっくりとした時が流れているのを知ります。また、廃墟が隠された場所であり、簡単に立ち入ることができない場所であるからこそ、そこに流れる時間はいっそう独特なものになるのだと思います。滅びゆくものへの憧憬、と一言で片づけることもできますが、滅びゆくものでありながら、同時に生きているものでもある、それが廃墟に人の惹きつけられる所以ではないでしょうか。

参照URL
Wikipedia 端島(長崎県)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%AF%E5%B3%B6_(%E9%95%B7%E5%B4%8E%E7%9C%8C)

(祖父江愛子)


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