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リッこら

Re:ALL製作委員会は一枚岩ではありません。日々委員どうしが小首を傾げ合いながら 冊子を作っています。彼らは一枚岩というよりはむしろ、ガラクタの山のようです。どんなガラクタが埋まっているのか。とにかく委員それぞれが好きなものを書きたいということで始めたコラム、気が向いたら読んでやって下さい。ひょっとしたら、使えるガラクタがあるかもしれません。

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uniformからcostumeへ


 私は激怒した。なんなのだ、ここは。お花畑か。高校を卒業して、はや3ヵ月。桜が散り、花粉が舞い、そして新緑が美しい季節へと時は移り変わっている。時がおだやかに流れる中、依然私を苦しませているのが服の問題である。キャンパス内で横を通り過ぎる女性は皆、カラフルかつパステルだ。いわゆる「ゆるふわガール」的なかわいらしい恰好をしている。ながめているだけで目の保養である。その一方、私は数少ないお気に入りの服をローテーションしている。おなじ印象になりすぎないよう、連続で着ないよう、ちょこちょこ組み合わせを変えて耐えしのぐ。まぁ私の服なぞ誰も気にしていないのだが。

 朝、電車にゆられながら高校時代の朝のことをうつらうつら考えていた。部活の朝練習に間に合うぎりぎりの時間に出発。洗面所で濡らした髪の毛を、坂によって起こる風力でかわかす毎日。そんな日々の相棒が制服だった。シャツを着て、スカートをはく。最低、この二つの動作で家を飛び出せたのだ。リボンだの、カーディガンだの、それらのオプションは自転車を停めてからでいい。(そのためには先生の目をかいくぐるスピードと、ごまかす大きな声での挨拶が必要となる)

 ああ、制服。汝は忙しい朝、練習に間に合う一筋の希望と限りない勇気をあたえてくれた。この感謝が尽きることはない。短いスカート、大きめのカーディガン、わざわざボールチェーンをつけてゆるめたリボン。中学の制服が地味だった反動からか、高校では思いっきり着崩していた。正直、スカートの長さやリボンのゆるめ具合なんかどうでもいいと、今は思う。そう考えてしまうのは歳を重ねたせいだろうか。悲しい。あの時はあんなにこだわっていたのに。何かにとりつかれたように。

 最寄り駅で、かつて自分が着ていたなつかしい制服を見ることがある。思わず目を凝らしてしまうが、相手からしたらただの気持ち悪い女だ。私服でいるとOG感が出ないことに気づき、少し寂しくなる。ふんぞり返って歩くのが精一杯の自己顕示である。どっちにしろ気持ち悪い。おなじ制服を着るというだけで、相手が赤の他人であっても勝手に仲間意識をもってしまう。それは学校側から見れば生徒をうまくコントロールする、生徒側から見れば連帯感を生むという、制服効果の一つである。今頃になってまんまとはまっている、現在の私。

 「ひらがなタイムズ」という「日本のありのままを外国人に紹介する日英バイリンガル・タウン誌」には『「制服は見た目がいいだけではだめです。学生服ですから動きやすくて、学校生活を楽しめるものでなければなりません。ファッションですから、世間に認められるものでなくてはなりません」と相浦さんはポリシーを語ります』と書かれている。(注1)学校が定めた基準の中で、最大限に自分らしさを表現する。生徒全員がおなじものを着ているからこそ、センスが光る。そこが制服の魅力であり、楽しみ方であると思う。

 大学生、社会人の制服の座にはスーツが鎮座している。私も何度か、もうスーツを着て大学へいってしまおうかと思った。しかし、採用面接もなく塾講師などのバイトもしていないというこの状況。友人に理由を聞かれたときが怖い。妙に大人っぽい友人がスーツを着ると、一瞬社会人に見えることがある。外見で大学生と社会人を区別するのは、なかなか至難の業だと思う。今の私たちが「大学生」だとはっきり示せるのは、学生証を提示したときだけだ。もう服では表せない。

 制服という枷はなくなった。しかし、あの縛りをふと懐かしく思う時がある。大学生の私にとって、制服はユニフォームではなく、コスチュームとなった。今さら恋しく思っても、遅いのはわかっている。過ぎ去った高校生活。二度と訪れない「高校生」という旬。甘酸っぱいような、ほろ苦いような思いの一番近くにいた相棒は、今クローゼットの中で静かに眠っている。

荒井 麻友子

(注1)2011年4月掲載記事「制服-日本人に愛されるファッション」より。「相浦さん」とは、CONOMiという制服ブランドを展開する株式会社このみ社長・相浦孝行氏
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細分化と知識欲の辺りをテキトーに


 少し前に、映画絡みの話をしていた時のことです。私は戦争映画以外の映画を あまり見ない(戦争映画も大して見てるわけではないですが)と言ったところ、『プライベート・ライアン』の冒頭のノルマンディー上陸作戦のシーンに話が行きました。そして、話の中で「ノルマンディーで一番戦闘が激しかったのってオマハビーチだったよね?」というようなことを聞かれました。この時、私は非常に曖昧な答えしか返せませんでした。ミリオタ的にはノルマンディー最大の激戦地はオマハというのは有名というか、初歩的なことだと思いますが、私はヨーロッパ戦線に関してはひどく不勉強なもので、この時ノルマンディー最大の激戦地がオマハかユタか分からなくなっていたのです。ユタはノルマンディー上陸作戦の五ヶ所の上陸地の中で最も連合軍側の戦死者の少なかった、激戦地とは真逆の場所ですから、ひどいものです。

 何が言いたいかというと、一般的に一つのカテゴリーにぶっこまれているような人達の中でも、カテゴリー内のさらに細かい趣味の違いというのは(少なくとも当人達の中では)結構大きなものだということです。 例えば、私の場合は日本軍の航空機ならある程度分かりますが、東部戦線(独ソ戦)の戦況等の辺りになるとてんで分かりません。まあ、この手の話は各分野にある話で、これを読んでくださっている皆さんにも似たような経験はあると思います。私もつい最近、太平洋戦線のシンガポール戦を巡ってまたやらかしました。

 ちなみに、ミリオタの大まかな分類は時代(WWⅠ期とか冷戦期とか)、国や地域(アフリカ戦線とか東側諸国とか)、各ジャンル(戦史とか兵器とか軍装とか)、各ジャンルの細かい区分け(兵器だったら航空機とか戦車とか火砲とか)といったところでしょうか。この辺り は「こち亀 ミリオタ 分類」とでもググれば、妙に詳しい分類表が出てくると思いますので気になった人はそちらでも参考にしてください。ついでに私は第二次世界大戦期の日本軍の兵器の航空機オタです。まあ、自称ですけれども(大事な予防線。何に対するものかは分かりませんが)。要は、零戦とかを見て喜んでる人ですね。実際、二式大艇の機銃配置図を見てwktkしてます。

 さて、小学生の頃に零戦搭乗員の手記を読んで以来、第二次世界大戦期の航空機が興味の中心だった 私ですが、ここ一、二年で変化も出てきました。「ガールズ&パンツァー」と「艦これ」、「World of Tanks」の影響で戦車や軍艦に関することに触れる機会が増えてきたのです。自分にとって新しい分野というのは本当に新鮮に感じることが多くて、興味がかきたてられます。特に戦車に関しては、元々知識がほとんどなかったために、本当に目新しいことばかりで楽しいです。趣味というのは楽しい事が第一ですから、ミリオタが捗って仕方がありません。この先も知識欲に任せるままに、楽しく過ごせたらと思うばかりです。

 ――積み本の山から『特務艦艇入門 海軍を支えた雑役船の運用』を引っ張り出しながら

高野 正俊

縮めてマンチって呼ぶらしい


 マンチキンという言葉をご存じだろうか。英語で書くとMunchkin。Man chickenではない。それはただの鳥人間であり、桂ぁぁ今何キロ!?でドボォの方だ。あれ2011年でしたっけね。ネタが古くて申し訳ない。さて、それでマンチキンなのだが、目的の達成にこだわり、自分に有利な言動ばかりするプレイヤーを指す言葉だ。おおかたRPGをプレイしているときに限って使われる隠語のようなものと思っていい。こう書くとどうしようもなくイヤなやつらのように思えるが、ゲーム好きなら誰しもマンチキンな部分はあろう。いやある。所詮この世は弱肉強食。今までずっと一緒の朋友だと思っていたソウルメイトだって次の日には恋人つくって目の前でイチャイチャしていたり内定決めて一足先に社会に飛び立っていたりするかもしれないのだ。現実社会でさえそうなのだからゲームでだってマンチキンになったっていいじゃないか。うかうかしてはいられない。そもそも最初から否定するつもりはないが、ともかく、そんなマンチキン症候群な私が今回紹介するのは、Steve Jackson Gamesからそのものズバリ「マンチキン 」というボードゲームである。



 このゲームでプレイヤーはダンジョンである地下迷宮に潜りモンスターと戦って宝物を手に入れ、自分のキャラクターのレベルアップを目指す。モンスターを倒し手に入れた宝物を売り、経験値を得て最も早く10レベルに達したプレイヤーが勝利する対戦ゲームだ。ダンジョンの奥に眠るドラゴンを協力して倒すような類いのものではない。ルールの冒頭にはこうある。「『マンチキン』は、ダンジョン探索の神髄を体験させてくれる悪趣味なパロディ・ゲームです」と。何かがおかしい。ゲームに使用するカードにはダンジョンカードと宝物カードがあり、プレイヤーは手番になったらダンジョンカードを捲りダンジョンを進む。それがモンスターであれば戦闘。勝てばレベルアップし宝物カードを獲得、負ければレベルは没収。戦闘の勝敗はレベルの比較で決まり、プレイヤーの装備のボーナスとレベルを足してモンスターのレベルを上回ればよい。勝てそうにない場合、他のプレイヤーに協力を仰ぐこともできるが、協力した見返りとして戦果の宝物カードを要求されるのは当たり前。断られるどころか戦うモンスターを強化するカードで戦闘に干渉されることまである。やはり何かがおかしい。 1レベルモンスターの《松葉杖ゴブリンLv1》も「頭がいい+5」「ばかでかい+10」「ものすごく怒った+5」「古代の+10」のすべてを使われたならばそれであるならば 《松葉杖ゴブリンLv31》となり到底太刀打ちできないモンスターに変貌する。やはり何かがおかしい。絵面はシュールだがマンチキンなプレイヤーはオシャレや見た目にこだわらないから関係ないのだ。誰かが冒険中に倒れてしまったらその装備品を皆で取り合うこともできる。「都合のいい計算間違い」で 2+2=22と強引に主張したり、「いかさまダイス」を 使ってダイスの出目を好きな出目にしたり、挙げ句盗賊になったと思いきや颯爽と他のプレイヤーを闇討ちしたりと、闇遊戯も真っ青どころか粛正の罰ゲームをしてくるだろうことは疑いようがない。一言で言ってしまえば、繰り返しになるが悪趣味だ。だからこそこのゲームの結果が尾を引いて仲が悪くなることもない。なぜならば、そう、ゲーム好きなら誰しもマンチキンな部分はあるからである。お礼状のことは説明するよりも実際にやってみたほうが早いだろう。

 最後に本コラムはマンチキンを薦めているのではなく紹介しただけだということを留意されたし。

木村 諒士

おじさんと幼子のあれこれ


 中学生のときに、母の知人の子を我が家でしばらく預かることになった。

 Yちゃんという名前のその女の子は、当時まだ生まれて2か月ほどのちんちくりんで、初めて見たときは、手や、顔や、目や、口や、その他ありとあらゆるものが「こんなに小さいのか」と、素直に驚いた。

 僕は今どき珍しい5人兄弟の2番目で、1番下の弟とは6つも年が離れている。弟のこともそれなりに可愛がってきたつもりではあるのだが、なにせ弟が赤ん坊の頃は僕自身もまだ小学校低学年だったから、その頃のことはほとんど覚えていないし、覚えていたところで、赤ん坊という生き物が、あれほど小さいものだという認識は持っていなかったに違いない。

 生まれてそれほど経っていない赤ん坊は、とても本能が強いらしく、指を手に近づけると、反射的に握り返してくる。そのときの柔らかい、温かい感触が心地良くて、僕はその頃、よくYちゃんを抱きかかえては、Yちゃんの手を握っていた。

 だが赤ん坊は、極めて動物的だ。ただ好奇心にまかせて触ることしかできない中学生の子どもには、手に負えないことも多く、突然泣き出したりすると、僕には為す術もなかった。そこへ僕の母がやってきて、Yちゃんを抱きかかえ、背中を優しくさすりながらあやすと、Yちゃんは泣き止む。なるほど、こうすればいいのかと見よう見まねで真似してみると、僕でもYちゃんを泣き止ませることができるようになった。

 けれどまた泣き出したとき、同じようにやっても泣き止む気配がない。すると母が再びYちゃんを抱き、さする。不思議とYちゃんは泣き止んだ。

「どんな魔法を使ってるの?」

 そう問いかけると、母は「伊達に5人も育ててないんだよ」と言って笑う。その笑顔を見て、Yちゃんが笑った。

 幼子というのはとても奇妙な生き物で、傍から見ているだけでは、その子に何をしてやればいいのか、まるで見当がつかないことがほとんどだ。けれど、そんなところも魅力的で、わからないなりに、関わっていくのはとてもおもしろい。

 Yちゃんが親のもとへ帰ってからしばらくして、別の子どもが我が家に来たことがあった。その子――Hちゃんは母の友人の娘で、僕はHちゃんが赤ん坊の頃に一度チラリと顔を見たことがあったが、そのときには既に4歳を過ぎ、以前とは見違えるほど大きくなっていた。とは言え、まだそれほど多くの言葉が話せるわけでもないHちゃんと、僕はコミュニケーションの取り方がわからないなりに手を取ったり、微笑んだり、おもちゃを手渡したりする。けれどもHちゃんは一向に笑わない。

 僕はすっかり困り果てて、苦し紛れに近くに置いてあった単3電池を横に倒し、指で押しつぶすようにはじいてテーブルの上を滑らせた。電池はグゥンと低い音を立ててバックスピンし、いったんHちゃんの方へ向かうが、すぐに僕のもとへと返ってくる。するとそれを見たHちゃんがキャッと笑い出した。

「え、こんなのでいいの?」

 そう思いながらも電池を手渡すと、Hちゃんはまだ小さな両の手のひらで、電池をベタベタと触る。
 だが、うまく回転をかけることができなかったようで、ただ僕の方へと電池を転がすだけになってしまった。僕は電池をキャッチし、また回転をかけてみせる。Hちゃんが嬌声を上げる。

 そんな、キャッチボールならぬ、「キャッチ電池」のやり取りを横で眺めていたHちゃんの母が、「楽しいのぉ?」と言って笑いかけると、Hちゃんは「ウフフ」と嬉しそうに笑顔。それを見て、僕もHちゃんの母 もつい顔が綻んでしまう。

 「キャッチ電池」を、例えば僕がこのRe:ALL製作委員会で同期の男と二人でやっていたとしよう。それを後輩が見たら、頭の具合を心配されそうだ。親切な者ならば、いい病院を紹介してくれるかもしれない。

 はっきり言って、「キャッチ電池」のなにがおもしろいのかは、僕にもわからない。だが、それをおもしろがれる「わけのわからなさ」が、幼い子どもにはある。その「わけのわからなさ」は、言語によって世界を秩序づけるという、大人が普段当たり前に用いている方法とはまったく異なるやり方で、子どもが世界を知覚していることによって生まれるものなのではないかと、僕はひそかに考えている。

 言葉を持ってしまった我々には、まさに夢がそうであるように、言葉にしないと知覚した内容を長期間記憶としてとどめておくことができないらしい。だからみんな赤ん坊の頃の記憶は残っていないし、それは僕が高校を卒業する少し前、数年ぶりに会ったYちゃんもそうだった。

 僕の顔を見て、「知らないおじさん」みたいに避けられたのはショックだったが、昔のように無闇にスキンシップをとっては、ただの変態おじさんになってしまうから、それはできない。ただ、寂しいおじさんとしては、ちんちくりんだったYちゃんが、まだおじさんになる前の若々しい僕に抱かれ、楽しそうに笑っていた頃の記憶が、Yちゃんの脳みその奥深くに、ひっそりと残っていてくれたら嬉しいなと、願うのみである。そして、もしその願いが叶っていたとして、Yちゃんの記憶の奥で眠る中学生の僕は、一体どんなわけのわからない姿をしているのだろうか。そんなことも、考えずにはいられないのである。

中村 宇明

内職のある授業風景


 こんにちは、ようこそいらっしゃいました当コラムへ。
 さて唐突ですが、皆様は授業をちゃんと受けていますか?
 いやね、今授業中なのですが、ふと手を止めて周りを見回してみますと授業も受けずに内職に耽る方がちらほら居るわけですよ。うーむ、教授が声を枯らさんばかりに話しているのと言うのに、これではあまりに失礼という物。いけませんねぇ。
 いやでも、内職問題と言うのは、生徒のみでは無く、授業を行う側にも責に……おっと、なんでもございません。なんでもございませんってば。
 ハーイ、ジュギョウハチャントウケマショーネー

 まぁそれは置きまして、こう見ていますと一口に内職と言いましても色々と種類があるようですね。そういう理由でございまして、今回は授業の裏でひっそりと、しかし確固たる地位を築きあげている「内職」たちをフォーカスしたコラムでございますよ。


 まず目につきますのは、現役大学生支持率ナンバー1(浜村調べ)のスマートフォン。私の斜め前の方も先ほどからアプリゲームに没頭しております。机の下に隠すようにしてるから、まぁあんなに背中を丸めて。後で痛くならないんですかね。
 小柄なボディに数多の機能を詰め込み、SNSからゲームまで手広くカバーする暇つぶし職人。あんまり面白いものだから、自分の気がつかない間に取り出していじっていた、なんて人も居るそうで……いや、誇張表現では無く、スマホ依存症と立派な病名までつけられている程です。それと、猫背でスマホを操作し続けると非常に体に悪いそうで、皆さんも気をつけて下さいね。
 私も良くスマホを授業中に取り出してしまうのですが……正直、授業を受けずにスマホを弄っていたおかげで、より有意義な時間を過ごせた! と思った事は無いんですよね。大概が罪悪感か虚無感。どんなに優秀でも、しょせんは暇つぶし用と言う事でしょうか。


 隣を見ていますと、おやおや気持ちよさそうに眠っております。
 「居眠り」……コレは内職と言ってよいのでしょうか? いや、睡眠は全生命活動の中でも(三大欲求的な意味で)トップ3に入る重要なアクション。足りない睡眠時間を補っていると考えれば、これはある意味で授業よりも有意義な内職なのかも……ですが、暑かったりうるさかったり椅子が合わなかったり……全ての授業で快適な睡眠を得られるとは限りませんし、資料を回している時に寝ていたら周りに迷惑をかけてしまいます。
 えぇ、今まさにそういう感じでございまして。一向にプリントが回ってきません。
 しかしながら睡眠欲求とは自分の意志でコントロールは出来ないものですゆえ、もしかしたらこの人も好きで寝ている訳では無いかもしれませんし、それを批判するのも酷と言うもので……それにしても良く寝てますね、この人。


 お、前の席の人は本を読んでいます。小説でしょうか? 参考文献でしょうか?
 良いですよね、読書。私も大好きです。自分の好きな本を読むと言うのは何事にも代えがたい有意義な時間ですし、先生によっては授業の話を聞かずに指定の本を読む方が理解でき……あ、何でもないです。授業はちゃんと受けましょう。
 本を読む姿はそれだけで勉強熱心な雰囲気を醸すことが出来るのも中々のプラスポイント。まぁ醸すだけなんですけど。読書中の読書家に周りの音は聞こえませんし。
 ただ、本はかさばるんですよ。それだけが弱点。それでも重量なんか気にせず、何冊も持ち歩くんですよね、読書家は。そういう生き物なのです。


 そう言えば大学に入ってから、授業中にゲームをやっている人を見なくなりましたね。
 高校の頃は授業中ずっとゲームしてたぜ~、と言う話をよく聞いたのですが、教室も広くなり、ルールも緩い大学でそれを見ないのは何とも不思議な話。ゲーム好きとしては仲間が減ったようで寂しいですね。

 携帯ゲームなんてお子様の玩具だと思われているのでしょうか、悲しい。
 まぁスマホに居場所を奪われたと言うのが真実なのでしょうが、それはそれで悲しい。

 でも実際やってみようとすると、ゲーム音はうるさいわボタンのカチカチ音もうるさいわ、内職には不向きだと言うのも事実。まぁ授業中にやるように作られていませんし。
 とは言え、2014年は携帯ゲーム機対応で期待の出来るソフトがいっぱいありますし、ここから先、グッと巻き返してくるのかも……これは授業風景がどうなるか楽しみです。
 ……あ、いや、えっと、授業はちゃんと受けましょうね。はい。

 む、あの人は何かノートらしきものを広げて……語学の勉強でしょうか?
 ああいう人を見る度に、その授業でやるなり家でやるなり、とにかく内職でする必要は無いんじゃないの、と思うのですが……他でやるより内職の方が効率が良いと言う事もあるのでしょうか。しかし、犠牲になった今回の授業は何処で? おそらくまた別の授業で今回の分の内職をし、その分のツケをまた別の授業で……うーむ。
 まぁ、勉強法は人それぞれ、と言う事で。当人の中でしっかり回せているなら、ケチをつけるのも野暮というものですね。


 こうやって人の内職にケチばかりつけている訳なのですが、実際この私もこのコラムを書いている訳でして、詰まる所は同じ穴のムジナです。
 それで気がついたのですが、私の様に授業中にノートパソコンをいじるのは少数派の様ですね。やはりこの大きさが原因なのでしょうか……まあ確かにネットの諸々は全てスマホにお株を奪われてしまいましたし、最近はデジタルメモ、でしたっけ? たしかそんな名前のコンパクトなワード専用マシンもあるんですよね。あぁ、ノーパソ君の存在価値が……まぁ、わざわざ持ってきた所で教室は温度が悪かったり雑お……先生が話していたりで、執筆には向かないんですよね。教室は授業を受ける所。創作活動は落ち着いた所で。

 さて、と。そろそろ授業も終わりそうですね。
 丁度いい、このコラムも締めましょう。

 ――内職と言うのは決して褒められた行為では御座いません。
 どのような理由があっても決して認められる事ではありません。

 しかし、それを分かっていて尚、彼らは内職をやめようとはしない。

 大人に反抗するのが若者の仕事だと言わんばかりに、
 一度しかない大学生活を無駄には出来ないと叫ぶように、
 彼らは今日も、内職を続ける――

 ……ふむ、我ながら中々グッとくる語りじゃあ無いですか。ふふふ……

 あ、どうも。出席カードありがとうございます。
 ん? これ感想を書いて出席になるヤツですか?

 ……えーっと……今日は何を……

浜村 弘大

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