忍者ブログ

リッこら

Re:ALL製作委員会は一枚岩ではありません。日々委員どうしが小首を傾げ合いながら 冊子を作っています。彼らは一枚岩というよりはむしろ、ガラクタの山のようです。どんなガラクタが埋まっているのか。とにかく委員それぞれが好きなものを書きたいということで始めたコラム、気が向いたら読んでやって下さい。ひょっとしたら、使えるガラクタがあるかもしれません。

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

わりとだだ漏れでかつ抑えのきかないもの



 人は誰しも欲望をもっています。食欲・睡眠欲(休欲)・性欲の人間の三大欲、さらに名誉欲(昇進欲)・金欲を加えた五大欲、細分化すれば百八の煩悩といったところでしょうか。それこそ数を挙げればきりがない人間の欲望ですが、その欲望は別の不安や不満といったものをかきたてる要因にもなり得ます。そこでふと、そういった内在するエネルギーは物語の中でも見ることができるのではと考えました。本コラムではフランツ・カフカという作家の作品を紹介しながら「欲求」というテーマを取り扱っていきたいと思います。

 カフカの作品に出てくる手法として代表的なものと言えば、人間と動物との間にある境界を取り払ってしまうのが挙げられます。人間の世界から逸脱することによって動物の世界から主張をし、人間=動物が自分自身の生活や癖を語る。すなわち、自分の中にあるものを客観的に余すところなく透視してしまう語り口です。本来なら決して見通すことのできない心の深淵を語り手自らに告白させることによって、認知を可能にするのです。たとえば、人間となった猿による、自己が人間になり替わっていく経過を描いた物語『ある学士院への報告』、犬の生活の本質をあらゆる角度から探求する老犬の回想『ある犬の回想』、雌鼠の歌手ヨゼフィーネの動静をめぐって種族の今後の目算を立てるとある鼠のルポ『ヨゼフィーネという歌手(ねずみ族物語)』などは、変身へのいろいろな形での作者の欲求を見ることができるでしょう。中篇小説『変身』では、グレゴール・ザムザが毒虫に変貌し、日常生活の中へのこのこ出てきて肉親の嫌悪と侮蔑を浴びながら息絶えてしまう自嘲気味な内容で、なんともやり切れない自分自身が描写されています。それらはいずれも滑稽であり、同時に耐えがたい苦渋に満ちています。どれだけ苦悶にまみれても、脱出は叶わない。そんな現状への強い不満が諦念や鬱憤となって描かれる表現を読み取ることができました。

 不満に満ち溢れる現状から脱したいと思うのも立派な欲求のひとつです。家庭で父親と不和であったカフカがその不幸を『変身』に書き、再び動物に変身する余裕もなく『判決』では自分自身に死刑を宣告して、投身自殺で命を落としました。自らがいかなる成功を収めても血は争うことはできない。当然ですがそれは生まれついてのことなのです。カフカにとって父親が不幸の象徴的存在であり不安因子であったことは疑いようもありません。目を背けたくても背けることはできない、できたとしても許される所業ではない。予防線ではありませんが、逃げたいと思った時は得てして逃げ道は先に塞がれているものです。 そして、その先を塞ぐものというのは眼前に現れてはじめて認識できるのです。すべてを捧げて信奉し推し進めてきた、前衛的な死刑を執行する死刑執行台が不意に壊れる時、その執行台を動かす装置から大小無数の歯車が次々にあふれ出てきて、砂地を転がるとひとつずつごろりと横になって静止する。夢の幻想である歯車はいつまでたっても処理されず取り残されている(『ある流刑地の話』)。この横になった歯車にずっと「凝視される」不安は、耐え難いある種の粘着です。個人が抱えるものは、仮に他人に告白しても、往々にしてせいぜい同情止まりで共感を得られないような問題ばかりです。私が溜めに溜め込んだレポートの処理に追われていても同情されこそすれ決して手伝われはしないでしょう。それと同じで、不満というものは結局のところ、その不満を共有する者の間でしか、そこから脱出したいという欲求は強く働かないように思えます。とはいえ、そんな不満を物語にまで落とし込んでしまえばそれはそれで面白いものですが。「他人の不幸は蜜の味」とはよく言われますしね。

 何かしたいという思いが不安や不満を掻き立て、そういった不安や不満から脱したいという欲求が生まれる。当然と言えば当然なのですが、そのループが物語になると思うと違った新鮮さを感じます。何かをしたいと思うことが物語の発端です。以上、夏季休暇期間が終わり、休み中の動物的な生活から人間的な大学生活に戻ることに一抹の不安を抱く今日この頃です。ふとした拍子に自分の生活習慣がにじみ出ないよう気をつけたいのですが。


木村諒士


PR

折れろ 編集局員


 どうもこんにちは。文構1年、編集局の浜村です。あ、前回も文構1年、副編集長の浜村と自己紹介していましたね。

 2年目の1年生。はい、ご察しの通りです。

 さって、今回のコラムは何を書こうかしら。「何でもいいよ~」って言われると困るんですよね。で、書いたものはしっかり校正されますし。みんな、好き勝手しているように見えて、しっかり校正と言う名の関門を潜り抜けているわけです。
 そう、校正。今回も編集局のお仕事の話題です。前回も校正する人間の葛藤と信念をお固く書いたわけですが、今号は校正を受ける立場から、りっコラらしくゆる~く書いて行きましょう。ネタの使い回しだなんて言わないで、再利用ですよ、再利用。
 まず、「『校正』って、何?」と言う方のために説明をしましょう。校正とは、編集局員が書いた文章を担当がチェックして、添削して送り返す。で、それを受け取った編集局員はコメントを元に書き直して……を、編集長が満足する文章になるまで続ける、その一連の流れを指します。添削と一口に言っても、誤字脱字のチェックから句読点、改行の位置調整、文章の流れが自然かどうかの確認より良い表現方法の提案、外部が読んでも良いものかの判定等々……それと、「面白い内容かどうか」も担当の判断となります。

 で、最後に言ったコレがかなり厄介なポイントでして、「読者が面白いと思ってくれる」の定義は当然ながら人それぞれ。文章の書き手とその担当の「面白い」が合致する事はまずありません。だから、時に書き手と担当の激しい口論が……起きて……あれ、記憶にないな。まぁ、これは人それぞれですかね。僕は争いが苦手なので、とりあえず校正を受けてるときはハイハイ言ってやりすごし、後でグチグチ言いながら書き直しをするタイプです。

 わぁ陰湿……

 と、お思いの方もおられるでしょう。が、書いている側としては、「コレは最高の出来だ! 一発完成だろう!」と意気込んで提出する訳です。それに思いっきりペケをつけられたら、それは愚痴の一つでもこぼしたくなるという物です。不思議な話ですが、今まで自分と同じラインで働いていた奴が、編集長とか副編集長に就任した途端に、肩書に見合った校正スキルを発揮する、立場が人を創るとはよく言ったものです。自分と同じなはずの大学生に完膚なきまでに論破される。ぐうの音も出無い程の正論で屈服させられる。こっちも自分の文章力に自惚れて編集局にいるだけに、この悔しさたるや……この敗北と譲歩が良いRe:ALLを生むわけですし「悔しいと思えるのはそれだけ本気で向き合っている証拠」と言えばカッコいいですが、理屈で支配できないのが感情というものでして。ちなみに、校正担当も「なんでこっちの言いたいことが伝わらないんだろう……」とか「本当に僕のやり方に従わせて正解なのかな……」とか悩んだりするわけです。つまり辛いのはお互い様。みんな等しく苦労しながらRe:ALLは作られていると。そこらへんは会社と一緒ですね。これで、完成しちゃえば、「いやー、やっぱりアイツが校正担当(作文担当)で本当によかったなー!」って言い合ったりするから不思議なものです。終わりよければ全て良しとはよく言ったもの。まぁ、僕が単純な人間と言うのもありますが。

 さて、今回はこれ位で。次号はどんな校正と巡り合うんでしょう……


(浜村 弘大)


人間の帝国



わたしはまた、実在する国のどんな些細な現実にしろ再現したり分析したりしようとはせずに(その逆こそが西欧的な陳述の企図するところなのだが)、この世のなかのどこかしら(かなた)の、幾つかの特徴線トレ(この、製図法的にして、かつ言語学的な言葉よ)を抜きとって、この特徴線で一つの世界をはっきりと形成することができる。日本、とわたしが勝手に名づけるのは、そういう世界である。
(ロラン・バルト『表徴の帝国』宗左近訳、ちくま学芸文庫より)

老人

無垢。その瞳には迷いがない。何かをしたいと欲したとして、間髪を入れずに実行する。その行為についての考察などという煩瑣なことは行わない。悟りとは、自らの中に世界の全てを視ることである。

 ものを口にする。新聞を開いて、目を通す。椅子からそろそろと立ち上がる。全ては古来の舞台装置の上で行われる。歌舞伎の文法。型に嵌った動作、その手の動きは必ずルーティンを一巡する。新聞のページを繰る手は、一度必ず指先でピシャリと紙面を叩いてから、両手で素早くその紙束を打ち振る。

 動作だけでなく、発話もまた伝統調である。あらゆる音域を辿って呻きながら言葉を口の中で転がす。歌舞伎では、くどきと呼ばれる。怒ったときにはツラネと呼ばれうる。発語は単に伝達機能ではない。言葉の端緒に呻きの前奏が入る。呻きによって、発声自体の意味を探るように。もしくはそれを思い出そうともがくように。

 仕草は音を伴わずにはいられない。ここでは鳴らすことが動作の目的である。歩行は高らかな、しかしずんぐりと重い靴音を鳴らす。机上に書物を、置くというよりは叩きつける。かつて、彼が若いころ隆々と体内に巡っていた力は、音響によって代弁される。力は本体の周囲へ飛ばされる。それは浮世に放出される矢である。

 くしゃみ、溜息、あくび。それらも彼らにとって、弓矢として機能する。人が持つ呼気機能の限界を体現しようと試みるそれらは、一種の咆哮でもある。猛獣の咆哮は大地を揺るがしにかかる。かなたへせり出す自存在のイメージを夢に見た、精力旺盛な自己表現。

 彼らの趣味は、舌打ちしたり、口に含んだり、唇を開閉させることにある。つまり、赤ん坊なら母親の乳首に依存しようとするあの、口唇愛にまみれようと欲する。食事の際、咀嚼を口全体と聴覚で、存分に堪能し尽くす。誰よりも咀嚼の娯楽性を知っている。食物を飲み下した後も、舌と口蓋を擦り合わせて余韻を愉しむ。食後は爪楊枝、ときには糸楊枝で大切な口内を清掃する。このとき、歯の間から鋭く空気を吸い込む。愛する口内に、世界を招き入れようとする。さながらもてなし好きの老夫妻である。


児童

 「なぜ?」「なに?」問いはいつでも抽象的である。その模型として、法律を持ち込むことはできない。その問いは、憲法である。なんらの解決も試みず、ただ投げかける。常に投げかけ続けること自体に意義がある。

 一つの集団で騒ぎがあれば、瞬時に飛び火する。小火から火災になるのは一瞬で、小火のままで終わることはほとんど有り得ない。ただし、外部からの鎮火は必要ない。激しく燃え上がる分、火種はすぐに無くなり、跡には燃えかすが燻っているのみになる。そのため、大人が危惧するように、大事に至ることはほとんど無い。
 
 その視線を、眼差しとは呼ばない。ほとんど視線ですらない。茫漠と辺りを見渡し続ける。その眼はすべてを捉え続けるが、特には何も捉えない。線というより、面である。多分にパノラマ的。視界から外れているものを、常に好奇の眼で追い求めるが、捉えた時には捉えてしまったがゆえに、そのものへの興味は消えている。その視界=へだたりでもある。

 至って冷静である。とりたてて何かに興奮することはほとんどない。興味の範囲もまた、パノラマ的であるから。一時、熱烈な情動とともに何かに囚われることがある。ただし何にかはわからない。実際何かにということではない。自動販売機のおつりレバーに。先生が折ったチョークの欠片に。大人がパソコンを前にキーボードを打つしぐさに。彼らは囚われる、空虚な瓶の中身に。

 彼らの得意分野は、考えることである。ただし児童にとって、よく考えることは沈思黙考を意味しない。思考は試行である。奇声を上げるとき、他人に体をぶつけるとき、それはつまり思考である。「考えが及ばない」などということは、ここでは絶対に起こらない。


読み手

読む者は随時、構造主義者になる。読むことの始まるとき、紙の上に点在するインクの染み、または画面上に映るドットのかたまりが至上の価値を持ち始める。地の部分から浮き立たされる。染みやドットの世界内でもさらに、上下関係が規定される。ある染みはいつまでも記憶され、ある染みはほとんど読み飛ばされている。あるドット達はわずかに輝きさえし、あるドット達は気配を殺している。

 静止している。しかしその静けさは水のようである。静止は醸しだされている。ところが目を近づけてよく見ると、恒常的に、不規則に揺れている。動きはある。しかし自分を描写する心は、「私」の中に静かさをのみ見る。

 一連の文章を読み終えるとき、安堵が訪れる。安堵は征服の変奏である。一つの地を征服したときの安堵はしかし、まだ目の粗い征服網とでもいえる。火の見櫓から見はるかすその視界は、ただひたすらに見はるかす。はるかな視界は火の見櫓から降りてパトロールしたときの、古物商の品々、子供をしつける親、雨宿りをするおじいさん、そして高みから見下ろす火の見櫓の、その高み自体を見ていない。




(伊藤和浩)


立体機動ガラクタ要塞 ―Re:ALL―


 こんばんは、新入生です。題名はインパクトと時事性と思いつきを、ドレッシングを作るみたいに勢いよく混ぜ合わせたものです。フレンチドレッシングって美味しいですよね、最近気づきました。いやいや、ドレッシングじゃなくてコラムですよね、コラム。リッこらですよね。リッコラってあれですよね、おしゃれなサラダに入ってるゴマの味する葉っぱの事ですよね、Google先生? ……あ、あれはルッコラっていうんですか。すっかりRe:ALLに洗脳されていたようです。ドヤ顔で間違った知識を話さずに済みました。ほう、この葉っぱ、英語ではロケットというそうです。かっこいい! 今度サラダにルッコラが入っていた時は、フレンチドレッシングをかけてから、正しい名称とともにこれをドヤ顔で話そうと思います。
 いやいや、関係ない関係ない。それ今関係ない。こういう「話が脇道に逸れていっているようなんだけど最後きれいにオチる」系の話は先山君がしてますよね。ネタかぶりは厳禁です。じゃあ何の話をしようかな。好きなものの話をすればいいんですよね? 私が好きなものは、そうだなぁ、嵐とか。でもアイドルの話は平山がしてたなぁ。ツイッター好き、その話はおうみんがしてたなぁ。アニメ・漫画・ゲームどれも好きだけど、実は大学生になってからまともなオタク活動が全然できてないんです。掃除? ええ、私も嫌いですよ。

 さて、どうしよう?

 よくよく考えてみれば、私が今一日の中で一番考えている時間が長いのは、このRe:ALLのことかもしれません。なにせRe:ALLにしか気軽に話せる人がいないんです。「私は同輩の皆のこと友達だと思ってるけど、皆はどうなのかな」とか、「また今日も先輩に迷惑かけたな」とか、「コミュ障が祟って皆さんに不快な思いをさせてるんだろうな」とか、そんなことを考えて生活しています。ちなみに根暗は死ぬまで治らないと思っている人間です。当初はそんな自分をネタにして、このコラム用に「ソルティ・ボッチ」という上手いんだか上手くないんだかよく分かんない題名を付けた文章を書いていたのですが、気が付けば4000字も書いていて……これってもうコラムじゃないじゃん! レポートじゃん! しかも悲劇的につまんねぇ! と気付き、びりびりと破いて捨てました。ワードのファイルを。ともあれ、目下私が一番好きなものはRe:ALLです。これからRe:ALLの話をしましょう。
 でも今私が書かねばならないのは「コラム」です。じゃあそもそもコラムってなんなの?とまたまたGoogle先生に頼ってみたところ、コラムというのは本来、古代ギリシャやローマの建築物に見られる円柱のことを言うのだそうです。へ、へぇー。じゃあかの有名なパルテノン神殿の白い柱もコラムなんですね。で、それがどうして今の意味に? 「まずその縦長の見た目から雑誌の縦長の記事の事をコラムというようになった。さらにイギリスの新聞が短い批評の連載に縦長の欄=コラムを使っていたので、短い批評の事をコラムというようになった」……だそうです。へ、へぇー……そうなんですか。でも日本のコラム(有名どころでいえば天声人語とか)って縦長じゃないですよね? その点リッこらはちゃんと縦に長い。つまりは正統派コラムってことですか。
 なるほどこのリッこらを「柱」だと考えると、その内容とは別に(各コラムの内容は面白いに決まっています。どれも一読の価値アリです)面白いものに思えてきます。それはまるで、柱が何本も積み重なって出来た、どこまでも高く伸びる一本の塔のよう。遡れば2012年11月に卯木先輩のゲーセン格ゲー談義に始まったこの連載コラムですが、内容は旅行あり、文学あり、サブカルありと様々で、一本一本の長さもバラバラです。しかし、どれをとってみても触れる手に確かな熱を伝えてくるこの柱(コラム)たちは、きっとそれぞれ腕利きの職人たちによって、大きな大理石から情熱を以って削りだされたものに違いありません。一番古いコラム、つまり一番下の柱を創った卯木先輩は、現在も運営長としてRe:ALL全体を支える存在ですし、その上の柱を造った中村先輩、通称うめ先生は、目下製作中のRe:ALL10号の編集長です。現在のRe:ALLの大黒柱であり、我々製作委員としてはGoogle先生より遥かに頼れる存在であるといっても過言ではないでしょう。その上には新入生歓迎会の時からたくさんお話させていただいていて、デザイン局の先輩でもある松本先輩、今同じ10号の企画班でお世話になっている浜村先輩と続きます。こうした柱の積み重ねの上に、私のこのコラムが「乗る」、という訳です。脈々と受け継がれてきたRe:ALLの柱、その頂上に今我々はいる――

 あれ、何だか目から清い汁が。

 この「リッこら」のページの冒頭には、「Re:ALL製作委員会は一枚岩ではありません。(中略)彼らは一枚岩というよりはむしろ、ガラクタの山のようです。」と書いてあります。確かに、集団で何かを作り上げるということは、綺麗なことばかりではないかもしれません。というか、実際そうだと思います。ですが、赤い目をこすって、目を凝らして、じっくりゆっくりその山をよく見てみましょう。すると、一つ一つのガラクタが積み重なり、時にはぶつかり合っている様子が見えます。それは、それぞれのガラクタが柱の様に自立しながらも、「フリーペーパーの製作」という一つの大きくて重いものを支えあい、吸って吐いてをし、一つの塊として目的地に向かっている。――なんだか巨大で不気味な生命体のように思えてきます。いわばRe:ALLは、単なるガラクタの山ではなく、いびつながらも「動く建造物」――例えば「ハウルの動く城」のようなもの――だと思うのです。

 今はまだ、私はたくさんの柱の上に乗ったお荷物状態だと思います。しかし、10号のクレジットに名前が載るころには、きっと立体機動ガラクタ要塞・Re:ALLの一部になれているはずです。長くなってしまいましたが、出来上がった10号を皆さんにお配りする秋に思いを馳せつつ、二礼二拍手一礼でこのコラムを終えましょう。あ、ちなみに二礼と二拍手は紙面の関係上省略します。


 Re:ALLの素敵な「柱」の内の一本になれますように。(ぺこり)


(宮下友里)


妄想をしよう!ああ、そうしよう!


 突然ですが私は妄想が好きです。というわけで妄想をしましょう。

 目という物は、しばしば「心の窓」などと呼ばれます。人の精神状態や体調を表すものだ、と。また、小説や漫画においてもその「心の窓」としての目は描写されることが多く、登場人物の感情の変化で目の色が変わるときがあります。怒った時に目の色が赤色に変化したり、というように。
つまりは、この世界において目は心の動きに関係があるものと思われてきたわけです。それはなぜか。私は、きっと目というものが本来の自分を晒していたからではないかと思います。嘘をつくときにまず、目が揺れるように。私たちの目は本来の自分という物を表しているのではないでしょうか。

 また、民間伝承などにおいては、目は霊力が宿る器官だと考えられ、さまざまな目が存在します。「見ただけで人を石にしてしまう」という目や「見ただけで人を死に至らしめる」などいう目すら。これが本当だとしたら恐ろしい話ですね。そしてワクワクします。

 そんな目に対して、昨今、流行っているものがあるのです。何でしょうか?そう、それはカラーコンタクト!目を大きく見せるため、コスプレをするため……理由はさまざまでしょうが、コンタクト装着時に色素がとけだし、目を傷つけることがなくなったなど、安全面においての技術の向上などもあり、カラーコンタクトをつける方たちが着実に増えています。

 たしかに、カラーコンタクトをつけた方たちは美しい。以前よりも大きくなった目、朱色になった目……そのどれも、とても見応えがあります。本心を言わせてもらえば、見ていて楽しい。どんどんつけて!そして私に君の美しい姿をみせて!と。

 ですが、私はこうも思うのです。私たちは怯えているが故にカラーコンタクトをつけているのではないか、と。

 先も述べた通り、古来より目は精神を表すもの、そして強い力をもつものだと言われてきました。カラーコンタクトとはいわばそのような目を隠すもの。目のもつ本来の力―――などといったらいささか厨二病くさいのですが、いわば力としての本来の自分自身を隠してしまっているのではないでしょうか。カラーコンタクトをつけている限り、自分自身が持つ本来の目と相手の目とが出会うことはありません。だって、その目はあなたの持つ目とは形も色も違い、本来の目を覆い隠してしまっているのですから。
そうやって目を隠すことで、本来の自分を見られないようにしている。それが、他者と本来の自分との接触を恐れるという怯えに繋がっている。

 ……とまあ、カラーコンタクトについていろいろ書いてきましたが、そんな私はカラーコンタクト肯定派です。目の色が変わるっていうのは理屈ぬきに楽しいですしね!

 また、別の見方もあるでしょう。私としてはこちらの考え方の方が妄想として楽しいです。

 それは、私たちは隠しているのではなく守っているのだ、という見方。怯えからくる自己の守りではなく、守りのための守りです。この世界には見たくもないほどの醜悪なものが確かに存在します。精神的なものなり、高田馬場駅前の飲み会後の吐瀉物といった物質的なものなり。

 それを仮に邪眼そのもの、すなわち人を汚し、傷つけるものだと思ってみたらどうでしょう。私たちはカラーコンタクトというもので目を変え、極薄の膜を張り、本来の自分とその醜悪なものとが直接触れ合わぬよう、守っているのではないでしょうか。決して、自身の魂が汚されることのないように。貰いゲロをすることのないように。その結果として、私たちは自身を隠してしまっている。たしかに、本来の自分を隠しているという点においては、最初の考えと合致します。ですが、違うのはその目的。先の考えにおいては、カラーコンタクトは「隠すこと」を目的にしていました。本心をさらけ出すことに対しての怯えからの隠しですね。対して、後の考えにおいては周りからの守りを目的にしています。結果、本来の自分を隠してしまっている、というだけで。

 では、ここで妄想を発展させましょう!突如私の脳裏に浮かんだ一人の男の子について考えたいと思います。

 彼の名前はタケシ。ポケモンでサトシの傍にくっついていた女好きの男の子です。彼のなによりも特徴的な点といえば、ほぼ常に目をとじているということ。カラーコンタクトではありませんが、本来の目を見せないという点で一緒であると仮定します。いえ、実際には閉じていないのかもしれませんが、アニメにおいて、彼の目、といえるほど眼球が描写されることは滅多にありません。なので、彼の目は外界とあまり接触することのないものと判断しました。
目が 本来の自分をさらけ出す、という点においていうのならば、彼は好きな女性に対して自分という物をアピールするために目をしっかと開かなければならないでしょう。ですが、タケシの目は閉じている……(ように見える)。では、ここでさっきのお話を当てはめてみましょう!つまり、タケシは周りの邪眼的存在から身を守るために常に薄目だと仮定してみる、ということです。周りといえば、いつも一緒に旅している面子……サトシですね。

 つまり、突如浮かんでくるサトシ邪悪説。

 ―――合っているかどうかなんて気にしません!これは妄想です!ちなみに、広辞苑では、妄想とは「主観的な想像や信念」とあらわされております。ええ、まさしくこのサトシ邪悪説は主観的な想像といっていいでしょう。
また、タケシ君が実は心の中で他者に怯えている、という説も出てきます。何かトラウマがあって……というような形ですね。ああ、闇をもつタケシ君愛おしい。こういう瞬間に妄想の楽しさを感じます。

 ―――と、このように、ここまでいろいろと書き連ねてきて来ましたが、やはりもう一度言います。これは妄想です!
 
 とはいえ、この世界には多くのキャラがおり、多くの何がしかのイメージをもった物体が存在する。それは事実です。先ほど述べた目のように、ですね。それらを繋げて、切って、貼り付けて―――、その作業のなんと楽しいことか!自我なんてものを与えられ、自由に生きるよう、選択肢というものがあるように罰せられ、葛藤の中でいきる私たちに与えられた娯楽、それこそが妄想――!なんたる愉悦―――!

 と、私は一人パソコンの前でつらつらと思うのです。気づけば随分と長く語ってしまいました。私の妄想話はここらで終わらせてしまおうと思います。それでは、アディオス!


カレンダー

04 2024/05 06
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31

バーコード

ブログ内検索