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リッこら

Re:ALL製作委員会は一枚岩ではありません。日々委員どうしが小首を傾げ合いながら 冊子を作っています。彼らは一枚岩というよりはむしろ、ガラクタの山のようです。どんなガラクタが埋まっているのか。とにかく委員それぞれが好きなものを書きたいということで始めたコラム、気が向いたら読んでやって下さい。ひょっとしたら、使えるガラクタがあるかもしれません。

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事故と私とインターネット


 先日、友人から、本人いわく「身の毛もよだつ恐怖体験」を聞かされた。

 彼女は塾講師のアルバイトをしており、仲間うちでデータを共有するため、オンラインストレージサービス(DropboxやEvernote、Yahoo!ボックスなどに代表される、インターネット上でファイルをやりとりできるシステム)をスマホから利用している。ブラウザからストレージサービスのページにログインする手間を省こうと、アプリをインストールした彼女を悲劇が襲った。アプリを立ち上げようとしたところ、SDカードに保存してあった写真たちが、ストレージサービス上に自動でアップロードされたというのだ。中止ボタンは見つからず、戻るボタンを押しても同期は止まらず、あれよあれよという間に写真がばらまかれていく。アプリをアンインストールし、上がってしまった写真を削除することで、なんとか事なきを得たが、その時間は「生涯で一番長い一分間だった」と彼女は言う。

 それは大変だったね、でも、そんなに見られたら困る写真があるのだろうか。気になり訊いてみると、流出した写真の多くは、何気ない日常を収めたものであるらしく、人に見せられないような一枚はなかった、という。それなら、友人にとって、自動アップロードはなぜ恐怖体験だったのか。

 思うにそれは、私的だったはずのものが公のもとにさらされるから、ではないだろうか。私たちは毎日、「私」と「公」を使い分けて生きている。たとえば家に来客があるときは多少なりとも掃除をしてから人を迎えるし、逆に家でまで制服や仕事用のスーツを着ていることは(特殊な場合を除いて)ないだろう。あるいは車内マナーのうちの一つで、電車の中で化粧をしない、というものがある。「マナーだからNO」ではなく、「なぜいけないと言われているのか」を考えた場合、質問解決サイトに寄せられている回答をみると、電車内という公的な場に、化粧という私的な行為をもちこんでしまうから、という理由づけが目立つ。このように、現実世界では、「私」と「公」の区分はある程度はっきりとなされているが、インターネット上ではそうはいかないことがある。

 どういうことか。もちろんネット上にも、「私」と「公」の区分はある。たとえばTwitterの鍵つきアカウントを、だれにもフォローされることなく使い続ければ、誰かのタイムラインに表示されることもなく自由に呟ける「私的」な空間が立ち上がるだろう。また、仮にこの鍵つきアカウントユーザーが、友達と交流するために鍵のついていないアカウントを持っていれば、それは「私」と「公」を区別していると言うことができる。そもそもSNSを利用していないという人も、たとえば動画や音楽などを私的に楽しむことと、友達や同僚にメールを送ることは、同じネット上という地平で行われるから、ここでも「私」と「公」は区別されていると言っていいだろう。だが、ネット上では、およそ現実世界では起こりえないような「事故」に見舞われることがあるのだ。

 冒頭に遡り、スマホに保存していた写真を「誤って」他人の見られる空間に投げ込んでしまった友人。または、よくあるTwitterのアカウント誤爆。あるいは、自分の失敗談。サークルでSkypeを利用した会議をするとき、「指がすべって」ビデオ通話のボタンを押してしまい、見られてはいけないものがいろいろ映ってしまったこと。現実世界では、「誤って」私的なものを多数の人の目にさらしたり、「指がすべって」家の中を見せてしまったりすることはまずないが、ネット上、あるいはネットに接続可能な環境下ではワンクリックでそのような「事故」が起こりうる。現実世界でも、机の中にしまっておいた日記を家族に見られたり、友達に手帳を見られたりすることはあるかもしれないが、同時に何人もの(多くの場合には不特定多数の)人に見られる、ということは考えづらい。冒頭の友人も、「私」がなすすべもなく「公」のもとにさらされる、そんな状況をして「恐怖体験」と呼んだのではないだろうか。

 ところで、このような「事故」以外に、「私」と「公」の区分をあいまいにさせる、他の要因はないだろうか。それは「近さ」だと思う。「私的なこと」を話すことは、話す側と聴く側の距離が近くなければできないことだ。あるいは逆に、「私的なこと」を話すことによって、相手との距離を縮める場合もある。「近さ」を見誤ると不測の事態が起こる(たとえば学校帰り、友達が「ぜったい誰にも言わないから!!」と言うので好きな子を打ち明けると、翌日黒板に相合傘が書かれていてクラス中のからかいの的、好きなあの子は机に突っ伏してるしもう誰も信じられない……となるおなじみの現象などである)が、ともあれ、人間関係に「近さ」が生まれると、わたしたちはそれを「親しさ」と呼ぶ。ネット上では、現実よりも「近さ」が意識される。地球の裏側にいる人とも一瞬でつながることができるいま、世界はどんどん「近く」なっているといっていいだろう。「近さ」は「狭さ」といいかえることもできる。たとえばTwitterなどのSNSは、利用者本人の視野を限定することができるし、利用者の発言の公開範囲も(鍵をつけることなどによって)限定することができる。「近さ」「狭さ」が価値をもつこのような場所では、相手との関係性が閉じられたものだと思いがちだが、じつは突破口はあらゆるところで見いだされるのを待っている。「事故」はいつでも/どこでも誰かにふりかかる。現実だけでは起こりようがなかった、何かと何かの一瞬の巡り合いはいたるところで発生していて、その一瞬が、場合によっては現実に永遠に波及してくる、なんてこともありえるかもしれない。そんな奇妙な感覚を、ネット上では感じることがある。


 けれどもそうした懸念、あるいは期待は、今の私とは無縁である。この文章は現在、ネットに接続されていないPCを使って書かれているからだ。

 だから冒頭の友人の話が、ほんとうは友人ではなくほかならぬ私の実体験であったことを、誰かに知られることはない。実体験であったこと、それはいくつかの可能性を示唆する。塾講師という学生アルバイトによくある職業が記述されているが、ほんとうはまったく違う業種であったかもしれない。あるいは友人の数がゼロかもしれない――いや、文構生にだってちゃんと友人はいる、はずである。

 なにはともあれ、このような示唆すらも、人目につかないところに沈み、二度と浮かんでくることはないだろう。

 席を立ち、紅茶でも淹れてこよう。

 この文章が、何かの間違いで公開されることなどないように、胸のうちにしまっておこうと思う。


祖父江 愛子
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ねぇ、どうすんの仮面ライダー!

諸行無常。
「仏教用語で、この世の現実存在はすべて、すがたも本質も常に流動変化するものであり、一瞬といえども存在は同一性を保持することができないことをいう」
(Wikipediaより)
それは、形あるものに対してのみ使われる言葉ではない。形のない抽象的な概念も、時代と共にそれのもつ意味が変わっていく。

たとえば、「美しさ」の概念。
平安時代の美人の条件と、平成の美人の条件が異なっていることは、絵巻物に描かれた平安美人の画像と『あまちゃん』のポスターに写った橋本愛ちゃんの画像をここに並べるまでもなく、明らかだろう。ちなみに、私はアキちゃんよりユイちゃん派である。
中学の古典の先生が言っていたが、「今の芸能人の中で、平安時代に行って一番モテるのは、男なら笑福亭鶴瓶。女なら泉ピン子」だそうだ。
もし平安時代から今まで、「美しさ」の概念が変わっていなかったら、鶴瓶さんは落語家になっていたかどうか怪しいし、ぴったんこカンカンはもっと違う番組になっていたはずだ。
 
ナレーション「おやおやピン子さん、今日も男漁りですか~?」


変わってはいけないと思われるような概念も、諸行無常の言葉の例外ではない。「正義」の概念もそうだ。
「美しさ」と同じように、「正義」という言葉が指す概念も常に形を変え、捉えどころがない。
しかも「正義」の方は、ある時代に起こったある出来事によって、急激に変容してしまうことがある。それまで信じられていた「正義」が間違っていた、無力だったとわかったとき、時代は新しい「正義」を必要として、それを作り出す。そうして、正義はゆっくりと、ときには急激に移り変わってしまうので、私たちがいつでも普遍的に「正義」の存在でありつづけることは難しい。「正義」が指す範囲の境界線は動きつづけているので、その中に留まりつづけるには、境界線の動きを走って追いかけるしかないのだ。

しかし、いつでも「正義」の範疇に留まりつづけることを当然のように期待されている者たちがいる。
 
毎週日曜、朝8時から絶賛放送中。
仮面ライダーである。
2000年から放送されてきた平成仮面ライダーの14年の歴史は、その時代の「正義」とは何なのかを何度も問いつづけた奮闘の歴史でもある。
1年ごとにタイトルが変わるたび、違う形の「正義」を描いてきた。しかしそれだけではなく、「正義」の概念が根本的に変わってしまうような出来事があった時、「じゃあ正義って何?」という問いに最前線で立ち向かったのは、いつでも仮面ライダーだった。

2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件。
事件の概要、社会的な影響についてここで論じるつもりはないが、この事件が持つ意味は、とりもなおさず「大戦後の世界を支配した、アメリカ的正義感の崩壊」だ。
敵より強い力を持っていれば、敵は攻撃を仕掛けてこない。力で押さえつけるのが正義。そのような正義感では世界を救えないことが、壮絶な規模の破壊によって証明された。

ねぇ、どうすんの仮面ライダー!
今まで僕たちの信じていた正義は、間違っていたのかなぁ!?

2002年放送開始の平成仮面ライダー3作目、『仮面ライダー龍騎」で出された答えは、視聴者にとって衝撃的で、仮面ライダーというシリーズが大きく変わるきっかけにもなった。
『龍騎』登場するライダーたちは、自分の意志でライダーになることを選ぶ。初代仮面ライダーが悪の組織に改造され、自分の意思と関係なく仮面ライダーに「なってしまった」ことと比べれば、ライダーに「なれる」というのは革新的な転換だ。
そして、『龍騎』作中にはそれまでとは桁違いの数の「主人公」たちが登場する。実に13人(!)ものライダーたちは、自分の願いを叶えるため、同じく何かを願うライダーと闘う。ライダーになる人物の中には、純粋に闘いの快楽を望む脱獄犯、自分の欲望のためにしか闘わないと公言する弁護士など、それまでの仮面ライダー的な基準では決して「正義」とは呼べないような者たちもいる。
つまり、『龍騎』で示された「正義」とは、「それぞれの人間が正しいと信じるもの」という、ある意味では身も蓋もない粗暴な「正義」だった。
しかし、『龍騎』に登場するライダーたちは、独善的でヒーローの名に相応しくない、と言いたいわけではない。身も蓋もないのは確かだが、「正しいと信じられるものは人それぞれ」というのもまた一つの真実ではないだろうか。むしろ、「正義とはすなわちこれだ!」と一つだけの結論を下して、全ての人をその一方向だけに導いていくことの危険の方が大きいかも知れない。存在するはずのない絶対的な答えを示してしまうより、「これだけは確かに言える」ということを示す方が、かえってヒーローとしての役目を正直に果たしていると言えるのではないか。
社会に対して、挑戦的にも見えるが正直な「正義」を提示したことで、『龍騎』は仮面ライダーが決して単純なヒーローシリーズではないことを示した。
『龍騎』の結論とはすなわち、「戦うことでしか自分の正しさは証明できないし、正しさを証明するための戦いは止めることができない」ということだ。それが、9.11後のヒーローの姿だ。


……と、ここでこのコラムを終えてしまっては、「結局、正義なんて人それぞれ」という相対主義な結論で完結してしまうことになるので、もう一つ「確かに言えること」について述べておこう。
もう一つの答えは、平成仮面ライダー12作目『仮面ライダーオーズ』が示してくれている。『オーズ』劇中の挿入歌、「Regret nothing ~Tighten Up~」の歌詞を引用しよう。

見ないフリ 後ずさり 通り過ぎ That’s too bad
人として? 俺として それはしたくない
ひとつだけ 破れない 約束

「~しなければならない」という言い方で「正義」を示すことは難しい。その行動が持つ意味は、時と共に、または相手によって変わりつづけるからだ。
そうではなくて「~してはならない」という破れない約束を自分の中に持つこと。そうすることでなら、自分の基準に照らし合わせて、いつだって正しい行いをすることができる。
それもまた、確かに言えることの一つだろう。


ちなみに、私にとってのひとつだけ破れない約束は、人の悪口を言わないこと。
婉曲的にとはいえ、平成の世においては不細工であると言ってしまった平安美人さん、笑福亭鶴瓶さん、泉ピン子さんのお三方には、この場で謝罪させていただきます。


平山 貴之

Dancing together


 日々はダンシング。僕たちは狂ったように夜を過ごす。きっとそれは僕たちだけの特権。だから、真夜中はダンシング、ダンシング。場所なんてどこだっていい。皆何を考えているのか分からない、分かるはずもない。でも、ダンシング、ダンシング。ああ、もう疲れたな。けれど、あの子が手を取ってくれるから、ダンシング、ダンシング。夜通し僕らは踊り続ける。




「また懲りもせず踊っていたのか?」
 朝、僕が起きると父はそう問いかけた。
「うん。疲れたな」
「どんな踊りだ? 楽しかったのか?」
「僕たちにしか分からないよ。語るだけ無駄さ」
 父は右手に焼きたての食パンを持ち、かじりながら僕の話を聞いていた。端からイチゴジャムがストライプのスーツに垂れた父はそれを全く気にせずといった様子でパンを消化していった。
「俺が若いころも踊ったものだ。バブルで金が溢れていた。当然それは親を通して俺たち若者の懐に流れ込んできた。夜通しディスコで踊り明かしたさ。女のケツを追いかけていたもんだ」
「僕たちはそんなことしないよ」
「何故だ?」
「何もかもがまがい物だからかな」
 僕たちは快楽を求めるまでもなく、ただ空間を彷徨う。それが必要かどうかなんて分からないのに、行動に駆り立てられる。僕たちはいついかなる時も踊り続けている。ディスコは常にあり続ける。
「まあいい。俺は仕事だ」
 父は最後の一切れを口に運ぶと、コーヒーでそれを一気に流し込んだ。
「うん。行ってらっしゃい」
 僕は手を振って父を見送る。スーツにジャムを付けたまま、父は外に出て行った。
 時間は8時半を回った所だった。キッチンの片隅を、ゴキブリが横切っていくのが見えた。そろそろ出かける時間だ。昨晩踊っていた疲労感は嘘のように消えていた。今からなら、踊れる。
 冷蔵庫から牛乳を取り出す。パッケージには牛の絵がでかでかと描かれている。注ぎ口近くにある賞味期限は「2013年11月19日」と記載されている。それを見て今日の日付を思い出そうとするものの、思い出せない。しかしそんなことは些細な問題にすぎない。外は寒くなり始めている。冬に入った。必要な情報はその事実だけだ。
 ちょうど200ml分をコップに注ぎ、一気に飲み干した。そして、僕たちは踊り始める。
「おはよう」「ほら、私の手を取って?」「分かっているよ。昨日は眠れたかい? 夢は見た?」「夢は見ていない」「僕も同じだよ。悔しかっただろう?」「とても」
僕たちは挨拶を交わす。


 大学に着くと、寄り道をせずに教室に入った。すると、僕の死角を突くように一人の友人が姿を現した。
 彼は隣の席に座ると、鞄から教科書を取り出し、机の上に広げた。
「おっす。宿題は?」
「25ページの問題3」
「やってねーな。見せてもらってもいい?」
「別にいいけど」
 彼の頼みを素直に聞き入れた。僕は自分の解答に対する独占欲や自尊心といった類のものは何一つ持ち合わせていない。
 他の友人たちも疲労感を隠しきれていない様子でぞろぞろと教室の中に入ってきた。皆異口同音に宿題の範囲を聞き、答えを共有し始めた。
「つーか俺今日3時間しか寝てねーんだよな」
 僕の宿題を写し終わると、彼はぐったりしたように呟いた。
「課題? バイト?」
「12時までバイトしてた。ま、深夜時給だから良いけど」
「その後は何してたの?」
「彼女とずっとライン。途中でめんどくさくなって未読放置してる。寝落ちってことで許してもらえっかなー」
 彼は500mlペットボトルのお茶を一口飲んだ。目線はスマートフォンに向かっている。その画面が目に入った。名前欄には「りお」と黒の太文字で書かれている。その左のプロフィール画像欄には、少し可愛いクマのぬいぐるみの画像が貼り付けられている。未読を示す緑のランプの中央には「6」という数字が浮かんでいた。
 だりーわ、と彼がつぶやくと、踵を接したように担当教師が教室の中に入ってきた。眠そうな声で名前を読み上げ、僕たちも眠そうな声で返事をする。ある種の儀礼である呼名が終わり、先生は小問ごとにクラスメイトの名前を当て、板書を指示した。幸いにも僕や友人たちは誰一人として問題を当てられなかった。手持無沙汰な僕たちは、世間話に興じる。
 そうして、つつがなく授業時間の90分は過ぎていった。第二外国語の授業というのはどこかやらされている感じが教室中に満ちている。学生がしている行動もバラバラで、真面目に先生の話に耳を傾ける人もいれば、寝ている者、ケータイをいじっている者、別の授業の予習をする者など十人十色だ。なぜ皆が真面目に授業を受けないのか、と考えるだけ無駄であるし、いくらご高名の先生が教壇に立ったところで逸脱した行動を為す者は必ず出てくる。その可能性を最大に加速させたものこそが、第二外国語の授業なのだろう、と僕は自分に結論付け、教室を後にした。


 今日の授業は1限の第二外国語のみだった。昼を食べずに僕は家に帰る。道中目に留まった本屋に入って、本の表紙を眺めていた。平積みにされた表紙はまるで八百屋の軒先のように色鮮やかだった。少し惹きつけられたタイトルや表紙の本を手に取ったが、最初の数行を読んだだけで棚に戻した。
 結局何も買わずに外に出た。ここから僕の家までは歩きで15分ほどだが、途中傾斜がきつい坂道を登らなければならない。行きは坂道を降りるだけなので楽だが、帰りは少し辛い。
 坂道の途中に差し掛かると、黒猫が僕の前を横切った。黒猫は集合住宅のゴミ捨て場に跳び込み、透明な袋に爪を入れた。細長い林檎の皮が露わになった。だが、黒猫はそんなものに目もくれず更に最深部を探っていった。錆びたような色の食材が次々と外に出て、異臭が漂う。
 黒猫は魚の骨を咥え、早足で立ち去った。お目当てのものが見つかったみたいだ。僕、いや人間にとってはガラクタだが、猫にとっては宝物に違いない。猫に小判ということわざが思い浮かんだ。小判の価値が分かるのは人間だけだ。だが、猫にとって価値のあるものを人間が理解しているのか。猫にとって魚の骨は、人間にとっての小判と同じ価値のあるものなのではないだろうか。猫を価値の分からぬ無能な動物だと貶め、人間は時に生物としての優越感に浸る。何ともまあつまらないエゴだ。


 もう間もなく家に着く。今日も今日とて僕たちは踊り続ける。刺青のように、逃れられない物として。踊る、踊る。ダンシング、ダンシング。太陽が東から昇り、西に落ちる限り僕たちは変わらない。
でも、別にそれも悪くない。
ステージなんていらない。目立つ必要なんてない。ただ広い空間さえあれば、どこでも踊ることが出来る。きっと人生って、僕たちって、そんなもんだ。
                           (栗山 直樹)

捨てられない物

どうも、一年の高野です。前回、兵器の擬人化物はちょっと……とか言っておきながら、思いっきり「艦これ」やっていたりします。今もこれ書きながら、遠征回してます。だって、軍事関係なく、電が可愛いんですもの。カーデン・ロイド並みに。電たんprpr。

 さて、そんな気持ちの悪い戯言は呉式二号五型射出機で放り投げてしまうとして、「捨てられない物」です。捨てられない物といっても、あの若かりし初恋の日々の品とか、旧友との思い出の一品とかそういう物ではなく、明らかに役に立たないだろうなあー、というかゴミなんだろうけど、なぜか捨てづらい物のことです。私の部屋には用途不明の物体が後生大事にとっておいてあったりします。例えばこんなものが↓

・彫刻刀、そろばん、リコーダーなど
小中学校で買わされたもろもろですね。今後使うことはないであろうが、万一使うことがあったときに備えて保存しておこうという、典型的ダメパターンです。

・なぞのネジ
どこからともなく出現するネジ。何のネジだか分からないがゆえに捨てづらい。とりあえず引き出しに放り込んで、そのままになっています。こんなのが4つくらいあります。

・プラモの空き箱
プラモデルを組んでいる人なら共感していただけるかと思いますが、箱絵を含めた箱全体のデザインがもったいなくて捨てられません。数えたら大小40以上ありました。

・万引き防止用タグ
バーコードの印刷された白い長方形のぷにぷにしてる奴です。何についていたのか忘れましたが、なんとなく棚の角に貼っ付けておいて以来、時々ぷにぷにしてます。

・鏡餅の上にのっていたダミー橙(プラスチック製)
三、四年前から部屋に鎮座しています。今日も高さ約7cmの佐天涙子フィギュアの隣で私を癒してくれています。

 我が部屋のベテランの方々はこんな顔ぶれです。この他にも先日買った靴のタグが、なんかもったいなくて机の上のペン入れに入っていたります。しかし、こういったタグのようなものはもって半年といったところです。ふとした瞬間に、こんなものいらないのではと正気に返ってゴミ箱行きとなるのが大体のパターンです。また、今の時期ですと、年末の大掃除が大きな壁ですね。これを乗り切ることができると長命となる可能性が見えてきます。
 靴のタグの将来はともかくとして、こういった物を捨てない理由というのは大方、何かもったいないかそのうち使うかもしれないかのどちらかのように思います。どちらにせよ、その物に、言語化し辛いようなものも含め何らかの価値を感じているということになるのではないでしょうか。なぜならば、もったいないと感じるのならば、物に心惹かれる何かを見出しているということですし、将来の利用可能性を感じるのならば、物の利用価値を認めているということですから。また、身近なささいなものに価値を見出せるということというのは素晴らしいことです。同じように日常のちょっとした出来事や行動に価値を見出せたらなと思わずにいられません。見出した価値が些細なものだとしても、塵も積もればなんとやらです。様々な物から見出した価値の積み重ねが日常を豊かにするのではないでしょうか。これからは、様々な価値を見出しながら生活してみたいものです。(見出しすぎて物が捨てられない→ゴミ屋敷って展開は勘弁ですけどね。)

LOVEの話


 恋愛の話は、いつの時代のどんな世代でも興味があるのではないだろうか。万葉集には恋の歌があるし、平安時代にも恋愛ものの小説は多い。世代でいうなら、小学生からおばちゃんまで、幅広くウケる話題だと思う。とくに女子はこの手の話題が好きなイメージがある。
 だが、それは一般的にいえばという話だ。たしかに自分のでも他人のでも恋の話なら盛り上がれる人はいる。修学旅行の夜の定番は怖い話か恋愛の話か、そうでなければ暴露話が相場であることも知っている。そしてなぜか、恋の話をすると人との距離がグッと縮まるような気がする。これはあながち間違いではないと思う。なぜなら、恋の話―つまり打ち明け話をすることで、話している相手と親しんでいるということが分かりやすく示せるからだ。

しかし、ここまで書いておきながら、私はこの手の話がどうも苦手だ。人の恋の話を聞くのは嫌いではない。自分がそういう話をすることもある。それなりに楽しめるのだが、しかしやはり、得意ではない。
理由ははっきりしている。話を聞いても、何と言ったら良いか分からないことが、圧倒的に多いからだ。たとえば友人に片思いの相談を持ちかけられたとする。その友人が相手との会話などを思い出し、「あそこでこう言ったほうが良かったのかな!?」と言って落ち込んでしまったところを想像してほしい。さぁ、どうするか。常識的に考えれば、友人をそれ以上落ち込ませるような言葉は避けたい。本音を言えば、「そこでそれはないんじゃないか」と思っても正直に口に出しにくい。はっきり言ってしまったら友人を傷つけてしまうかもしれない。ただでさえ相手はナーバスなはずだ。だとしたら、「そんなことないよ! 大丈夫だよ!」と言うのが妥当なのだろうか。しかし、心にも無いことを言うにはそれなりの準備が必要なのだ。私はとっさの判断とか柔軟な対応ができないのである。その結果、「……たぶん、大丈夫だと、思うよ、うん」と、時間をかけたくせにしどろもどろになりながら、ありきたりなことを言うのである。そして心の中で自分につっこみながら、消えたいような心細さにかられるのだ。

 このようなわけで、私は恋愛の話が苦手である。が、あたふたするのは意見を求められたときだけで、基本的には楽しい。じつはもっと苦手な、というよりいっそ避けたい話がある。結婚(プラン)の話だ。
 結婚願望ある?と聞かれたら、正直に無いと答える。するとここでなぜ無いのかと追及が始まる。この追及はわりと厳しい。しかし無い気持ちを湧かすことなどできない。そんなことができたらプロの女優である。目の前で友人たちがいつ結婚したいかについて、話している。私は次々に繰り出される話が具体的なことに、一種の畏敬の念すら覚える。大体なんで結婚したいと思うのだろう。私は家に帰ったら他人が待っているという状況(私の結婚の認識はこのようなものだ)になりたいとは思わない。働いてお金をためても、一人旅に行けるか怪しいものだ。子供ができたらそちらにかかりっきりなってしまいそうだ。要するに、ひとりの時間が持てなくなるのではないかと危惧しているのである。
 だから今のところ、結婚願望はない。そんな話題になっても私はヘラヘラと聞いているだけである。今は一人でやることで手一杯だし、それで幸せなのだ。もし一人に飽きるときがきたら、そのときは私も結婚したいな……と思うようになるかもしれない。そうしたら、堂々と言ってやろうと思う。「結婚願望あります」と。

佐藤 真里

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