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リッこら

Re:ALL製作委員会は一枚岩ではありません。日々委員どうしが小首を傾げ合いながら 冊子を作っています。彼らは一枚岩というよりはむしろ、ガラクタの山のようです。どんなガラクタが埋まっているのか。とにかく委員それぞれが好きなものを書きたいということで始めたコラム、気が向いたら読んでやって下さい。ひょっとしたら、使えるガラクタがあるかもしれません。

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事故と私とインターネット


 先日、友人から、本人いわく「身の毛もよだつ恐怖体験」を聞かされた。

 彼女は塾講師のアルバイトをしており、仲間うちでデータを共有するため、オンラインストレージサービス(DropboxやEvernote、Yahoo!ボックスなどに代表される、インターネット上でファイルをやりとりできるシステム)をスマホから利用している。ブラウザからストレージサービスのページにログインする手間を省こうと、アプリをインストールした彼女を悲劇が襲った。アプリを立ち上げようとしたところ、SDカードに保存してあった写真たちが、ストレージサービス上に自動でアップロードされたというのだ。中止ボタンは見つからず、戻るボタンを押しても同期は止まらず、あれよあれよという間に写真がばらまかれていく。アプリをアンインストールし、上がってしまった写真を削除することで、なんとか事なきを得たが、その時間は「生涯で一番長い一分間だった」と彼女は言う。

 それは大変だったね、でも、そんなに見られたら困る写真があるのだろうか。気になり訊いてみると、流出した写真の多くは、何気ない日常を収めたものであるらしく、人に見せられないような一枚はなかった、という。それなら、友人にとって、自動アップロードはなぜ恐怖体験だったのか。

 思うにそれは、私的だったはずのものが公のもとにさらされるから、ではないだろうか。私たちは毎日、「私」と「公」を使い分けて生きている。たとえば家に来客があるときは多少なりとも掃除をしてから人を迎えるし、逆に家でまで制服や仕事用のスーツを着ていることは(特殊な場合を除いて)ないだろう。あるいは車内マナーのうちの一つで、電車の中で化粧をしない、というものがある。「マナーだからNO」ではなく、「なぜいけないと言われているのか」を考えた場合、質問解決サイトに寄せられている回答をみると、電車内という公的な場に、化粧という私的な行為をもちこんでしまうから、という理由づけが目立つ。このように、現実世界では、「私」と「公」の区分はある程度はっきりとなされているが、インターネット上ではそうはいかないことがある。

 どういうことか。もちろんネット上にも、「私」と「公」の区分はある。たとえばTwitterの鍵つきアカウントを、だれにもフォローされることなく使い続ければ、誰かのタイムラインに表示されることもなく自由に呟ける「私的」な空間が立ち上がるだろう。また、仮にこの鍵つきアカウントユーザーが、友達と交流するために鍵のついていないアカウントを持っていれば、それは「私」と「公」を区別していると言うことができる。そもそもSNSを利用していないという人も、たとえば動画や音楽などを私的に楽しむことと、友達や同僚にメールを送ることは、同じネット上という地平で行われるから、ここでも「私」と「公」は区別されていると言っていいだろう。だが、ネット上では、およそ現実世界では起こりえないような「事故」に見舞われることがあるのだ。

 冒頭に遡り、スマホに保存していた写真を「誤って」他人の見られる空間に投げ込んでしまった友人。または、よくあるTwitterのアカウント誤爆。あるいは、自分の失敗談。サークルでSkypeを利用した会議をするとき、「指がすべって」ビデオ通話のボタンを押してしまい、見られてはいけないものがいろいろ映ってしまったこと。現実世界では、「誤って」私的なものを多数の人の目にさらしたり、「指がすべって」家の中を見せてしまったりすることはまずないが、ネット上、あるいはネットに接続可能な環境下ではワンクリックでそのような「事故」が起こりうる。現実世界でも、机の中にしまっておいた日記を家族に見られたり、友達に手帳を見られたりすることはあるかもしれないが、同時に何人もの(多くの場合には不特定多数の)人に見られる、ということは考えづらい。冒頭の友人も、「私」がなすすべもなく「公」のもとにさらされる、そんな状況をして「恐怖体験」と呼んだのではないだろうか。

 ところで、このような「事故」以外に、「私」と「公」の区分をあいまいにさせる、他の要因はないだろうか。それは「近さ」だと思う。「私的なこと」を話すことは、話す側と聴く側の距離が近くなければできないことだ。あるいは逆に、「私的なこと」を話すことによって、相手との距離を縮める場合もある。「近さ」を見誤ると不測の事態が起こる(たとえば学校帰り、友達が「ぜったい誰にも言わないから!!」と言うので好きな子を打ち明けると、翌日黒板に相合傘が書かれていてクラス中のからかいの的、好きなあの子は机に突っ伏してるしもう誰も信じられない……となるおなじみの現象などである)が、ともあれ、人間関係に「近さ」が生まれると、わたしたちはそれを「親しさ」と呼ぶ。ネット上では、現実よりも「近さ」が意識される。地球の裏側にいる人とも一瞬でつながることができるいま、世界はどんどん「近く」なっているといっていいだろう。「近さ」は「狭さ」といいかえることもできる。たとえばTwitterなどのSNSは、利用者本人の視野を限定することができるし、利用者の発言の公開範囲も(鍵をつけることなどによって)限定することができる。「近さ」「狭さ」が価値をもつこのような場所では、相手との関係性が閉じられたものだと思いがちだが、じつは突破口はあらゆるところで見いだされるのを待っている。「事故」はいつでも/どこでも誰かにふりかかる。現実だけでは起こりようがなかった、何かと何かの一瞬の巡り合いはいたるところで発生していて、その一瞬が、場合によっては現実に永遠に波及してくる、なんてこともありえるかもしれない。そんな奇妙な感覚を、ネット上では感じることがある。


 けれどもそうした懸念、あるいは期待は、今の私とは無縁である。この文章は現在、ネットに接続されていないPCを使って書かれているからだ。

 だから冒頭の友人の話が、ほんとうは友人ではなくほかならぬ私の実体験であったことを、誰かに知られることはない。実体験であったこと、それはいくつかの可能性を示唆する。塾講師という学生アルバイトによくある職業が記述されているが、ほんとうはまったく違う業種であったかもしれない。あるいは友人の数がゼロかもしれない――いや、文構生にだってちゃんと友人はいる、はずである。

 なにはともあれ、このような示唆すらも、人目につかないところに沈み、二度と浮かんでくることはないだろう。

 席を立ち、紅茶でも淹れてこよう。

 この文章が、何かの間違いで公開されることなどないように、胸のうちにしまっておこうと思う。


祖父江 愛子
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