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リッこら

Re:ALL製作委員会は一枚岩ではありません。日々委員どうしが小首を傾げ合いながら 冊子を作っています。彼らは一枚岩というよりはむしろ、ガラクタの山のようです。どんなガラクタが埋まっているのか。とにかく委員それぞれが好きなものを書きたいということで始めたコラム、気が向いたら読んでやって下さい。ひょっとしたら、使えるガラクタがあるかもしれません。

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ねぇ、どうすんの仮面ライダー!

諸行無常。
「仏教用語で、この世の現実存在はすべて、すがたも本質も常に流動変化するものであり、一瞬といえども存在は同一性を保持することができないことをいう」
(Wikipediaより)
それは、形あるものに対してのみ使われる言葉ではない。形のない抽象的な概念も、時代と共にそれのもつ意味が変わっていく。

たとえば、「美しさ」の概念。
平安時代の美人の条件と、平成の美人の条件が異なっていることは、絵巻物に描かれた平安美人の画像と『あまちゃん』のポスターに写った橋本愛ちゃんの画像をここに並べるまでもなく、明らかだろう。ちなみに、私はアキちゃんよりユイちゃん派である。
中学の古典の先生が言っていたが、「今の芸能人の中で、平安時代に行って一番モテるのは、男なら笑福亭鶴瓶。女なら泉ピン子」だそうだ。
もし平安時代から今まで、「美しさ」の概念が変わっていなかったら、鶴瓶さんは落語家になっていたかどうか怪しいし、ぴったんこカンカンはもっと違う番組になっていたはずだ。
 
ナレーション「おやおやピン子さん、今日も男漁りですか~?」


変わってはいけないと思われるような概念も、諸行無常の言葉の例外ではない。「正義」の概念もそうだ。
「美しさ」と同じように、「正義」という言葉が指す概念も常に形を変え、捉えどころがない。
しかも「正義」の方は、ある時代に起こったある出来事によって、急激に変容してしまうことがある。それまで信じられていた「正義」が間違っていた、無力だったとわかったとき、時代は新しい「正義」を必要として、それを作り出す。そうして、正義はゆっくりと、ときには急激に移り変わってしまうので、私たちがいつでも普遍的に「正義」の存在でありつづけることは難しい。「正義」が指す範囲の境界線は動きつづけているので、その中に留まりつづけるには、境界線の動きを走って追いかけるしかないのだ。

しかし、いつでも「正義」の範疇に留まりつづけることを当然のように期待されている者たちがいる。
 
毎週日曜、朝8時から絶賛放送中。
仮面ライダーである。
2000年から放送されてきた平成仮面ライダーの14年の歴史は、その時代の「正義」とは何なのかを何度も問いつづけた奮闘の歴史でもある。
1年ごとにタイトルが変わるたび、違う形の「正義」を描いてきた。しかしそれだけではなく、「正義」の概念が根本的に変わってしまうような出来事があった時、「じゃあ正義って何?」という問いに最前線で立ち向かったのは、いつでも仮面ライダーだった。

2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件。
事件の概要、社会的な影響についてここで論じるつもりはないが、この事件が持つ意味は、とりもなおさず「大戦後の世界を支配した、アメリカ的正義感の崩壊」だ。
敵より強い力を持っていれば、敵は攻撃を仕掛けてこない。力で押さえつけるのが正義。そのような正義感では世界を救えないことが、壮絶な規模の破壊によって証明された。

ねぇ、どうすんの仮面ライダー!
今まで僕たちの信じていた正義は、間違っていたのかなぁ!?

2002年放送開始の平成仮面ライダー3作目、『仮面ライダー龍騎」で出された答えは、視聴者にとって衝撃的で、仮面ライダーというシリーズが大きく変わるきっかけにもなった。
『龍騎』登場するライダーたちは、自分の意志でライダーになることを選ぶ。初代仮面ライダーが悪の組織に改造され、自分の意思と関係なく仮面ライダーに「なってしまった」ことと比べれば、ライダーに「なれる」というのは革新的な転換だ。
そして、『龍騎』作中にはそれまでとは桁違いの数の「主人公」たちが登場する。実に13人(!)ものライダーたちは、自分の願いを叶えるため、同じく何かを願うライダーと闘う。ライダーになる人物の中には、純粋に闘いの快楽を望む脱獄犯、自分の欲望のためにしか闘わないと公言する弁護士など、それまでの仮面ライダー的な基準では決して「正義」とは呼べないような者たちもいる。
つまり、『龍騎』で示された「正義」とは、「それぞれの人間が正しいと信じるもの」という、ある意味では身も蓋もない粗暴な「正義」だった。
しかし、『龍騎』に登場するライダーたちは、独善的でヒーローの名に相応しくない、と言いたいわけではない。身も蓋もないのは確かだが、「正しいと信じられるものは人それぞれ」というのもまた一つの真実ではないだろうか。むしろ、「正義とはすなわちこれだ!」と一つだけの結論を下して、全ての人をその一方向だけに導いていくことの危険の方が大きいかも知れない。存在するはずのない絶対的な答えを示してしまうより、「これだけは確かに言える」ということを示す方が、かえってヒーローとしての役目を正直に果たしていると言えるのではないか。
社会に対して、挑戦的にも見えるが正直な「正義」を提示したことで、『龍騎』は仮面ライダーが決して単純なヒーローシリーズではないことを示した。
『龍騎』の結論とはすなわち、「戦うことでしか自分の正しさは証明できないし、正しさを証明するための戦いは止めることができない」ということだ。それが、9.11後のヒーローの姿だ。


……と、ここでこのコラムを終えてしまっては、「結局、正義なんて人それぞれ」という相対主義な結論で完結してしまうことになるので、もう一つ「確かに言えること」について述べておこう。
もう一つの答えは、平成仮面ライダー12作目『仮面ライダーオーズ』が示してくれている。『オーズ』劇中の挿入歌、「Regret nothing ~Tighten Up~」の歌詞を引用しよう。

見ないフリ 後ずさり 通り過ぎ That’s too bad
人として? 俺として それはしたくない
ひとつだけ 破れない 約束

「~しなければならない」という言い方で「正義」を示すことは難しい。その行動が持つ意味は、時と共に、または相手によって変わりつづけるからだ。
そうではなくて「~してはならない」という破れない約束を自分の中に持つこと。そうすることでなら、自分の基準に照らし合わせて、いつだって正しい行いをすることができる。
それもまた、確かに言えることの一つだろう。


ちなみに、私にとってのひとつだけ破れない約束は、人の悪口を言わないこと。
婉曲的にとはいえ、平成の世においては不細工であると言ってしまった平安美人さん、笑福亭鶴瓶さん、泉ピン子さんのお三方には、この場で謝罪させていただきます。


平山 貴之
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