中学生のときに、母の知人の子を我が家でしばらく預かることになった。
Yちゃんという名前のその女の子は、当時まだ生まれて2か月ほどのちんちくりんで、初めて見たときは、手や、顔や、目や、口や、その他ありとあらゆるものが「こんなに小さいのか」と、素直に驚いた。
僕は今どき珍しい5人兄弟の2番目で、1番下の弟とは6つも年が離れている。弟のこともそれなりに可愛がってきたつもりではあるのだが、なにせ弟が赤ん坊の頃は僕自身もまだ小学校低学年だったから、その頃のことはほとんど覚えていないし、覚えていたところで、赤ん坊という生き物が、あれほど小さいものだという認識は持っていなかったに違いない。
生まれてそれほど経っていない赤ん坊は、とても本能が強いらしく、指を手に近づけると、反射的に握り返してくる。そのときの柔らかい、温かい感触が心地良くて、僕はその頃、よくYちゃんを抱きかかえては、Yちゃんの手を握っていた。
だが赤ん坊は、極めて動物的だ。ただ好奇心にまかせて触ることしかできない中学生の子どもには、手に負えないことも多く、突然泣き出したりすると、僕には為す術もなかった。そこへ僕の母がやってきて、Yちゃんを抱きかかえ、背中を優しくさすりながらあやすと、Yちゃんは泣き止む。なるほど、こうすればいいのかと見よう見まねで真似してみると、僕でもYちゃんを泣き止ませることができるようになった。
けれどまた泣き出したとき、同じようにやっても泣き止む気配がない。すると母が再びYちゃんを抱き、さする。不思議とYちゃんは泣き止んだ。
「どんな魔法を使ってるの?」
そう問いかけると、母は「伊達に5人も育ててないんだよ」と言って笑う。その笑顔を見て、Yちゃんが笑った。
幼子というのはとても奇妙な生き物で、傍から見ているだけでは、その子に何をしてやればいいのか、まるで見当がつかないことがほとんどだ。けれど、そんなところも魅力的で、わからないなりに、関わっていくのはとてもおもしろい。
Yちゃんが親のもとへ帰ってからしばらくして、別の子どもが我が家に来たことがあった。その子――Hちゃんは母の友人の娘で、僕はHちゃんが赤ん坊の頃に一度チラリと顔を見たことがあったが、そのときには既に4歳を過ぎ、以前とは見違えるほど大きくなっていた。とは言え、まだそれほど多くの言葉が話せるわけでもないHちゃんと、僕はコミュニケーションの取り方がわからないなりに手を取ったり、微笑んだり、おもちゃを手渡したりする。けれどもHちゃんは一向に笑わない。
僕はすっかり困り果てて、苦し紛れに近くに置いてあった単3電池を横に倒し、指で押しつぶすようにはじいてテーブルの上を滑らせた。電池はグゥンと低い音を立ててバックスピンし、いったんHちゃんの方へ向かうが、すぐに僕のもとへと返ってくる。するとそれを見たHちゃんがキャッと笑い出した。
「え、こんなのでいいの?」
そう思いながらも電池を手渡すと、Hちゃんはまだ小さな両の手のひらで、電池をベタベタと触る。
だが、うまく回転をかけることができなかったようで、ただ僕の方へと電池を転がすだけになってしまった。僕は電池をキャッチし、また回転をかけてみせる。Hちゃんが嬌声を上げる。
そんな、キャッチボールならぬ、「キャッチ電池」のやり取りを横で眺めていたHちゃんの母が、「楽しいのぉ?」と言って笑いかけると、Hちゃんは「ウフフ」と嬉しそうに笑顔。それを見て、僕もHちゃんの母 もつい顔が綻んでしまう。
「キャッチ電池」を、例えば僕がこのRe:ALL製作委員会で同期の男と二人でやっていたとしよう。それを後輩が見たら、頭の具合を心配されそうだ。親切な者ならば、いい病院を紹介してくれるかもしれない。
はっきり言って、「キャッチ電池」のなにがおもしろいのかは、僕にもわからない。だが、それをおもしろがれる「わけのわからなさ」が、幼い子どもにはある。その「わけのわからなさ」は、言語によって世界を秩序づけるという、大人が普段当たり前に用いている方法とはまったく異なるやり方で、子どもが世界を知覚していることによって生まれるものなのではないかと、僕はひそかに考えている。
言葉を持ってしまった我々には、まさに夢がそうであるように、言葉にしないと知覚した内容を長期間記憶としてとどめておくことができないらしい。だからみんな赤ん坊の頃の記憶は残っていないし、それは僕が高校を卒業する少し前、数年ぶりに会ったYちゃんもそうだった。
僕の顔を見て、「知らないおじさん」みたいに避けられたのはショックだったが、昔のように無闇にスキンシップをとっては、ただの変態おじさんになってしまうから、それはできない。ただ、寂しいおじさんとしては、ちんちくりんだったYちゃんが、まだおじさんになる前の若々しい僕に抱かれ、楽しそうに笑っていた頃の記憶が、Yちゃんの脳みその奥深くに、ひっそりと残っていてくれたら嬉しいなと、願うのみである。そして、もしその願いが叶っていたとして、Yちゃんの記憶の奥で眠る中学生の僕は、一体どんなわけのわからない姿をしているのだろうか。そんなことも、考えずにはいられないのである。
中村 宇明
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