6月12日!あの日の月を見た?
あの日の月はいつもよりも妙に近く、低く、異様な光を放っていた。
別にナントカ月食とかナントカ日食とかが起きたわけでもなく、かぐや姫が地上に下ってきたわけでもない。月を定期的に観察していると、妙に大きく見えるときがある。それが偶然6月12日にあたっただけだ。あの日何人の人が月を見て同じように感じたであろうか。
今日、月の存在は薄い。町は電灯の光で溢れ、電気自動車が走る。提灯片手にこしらえて、月明かりの力を借りて、「お月さんありがとう!」と、隣町まで医者を呼びに出かける様な時代とは訳が違う。今や特別なことがない限り、月を意識する必要がないのだ。
太陽が抜け落ちたらこの世は暗闇に包まれ、明らかに様相を一変させる。しかし、もし月がこの世から抜け落ちても、すぐには気づかれないだろう。
村上春樹の小説『1Q84』の世界では月が二つ浮かんでいる。そして主人公のほか誰もそのことに気づいていない。(私はなんだかんだ読破しなかったので、最後の結末でそれが何を意味するかも分からなければ、記憶も曖昧だが)私は空に浮かぶ月を見て、いつもそれを思う。きっと月が二つ浮かんでいても、おそらく誰も見てやしない。
月は、人間の進歩とともに大きく価値が変動している。役に立つか立たないか、意味があるかないか、それが価値基準になりつつある現代には月はほとんど意味を失った。しかし、それゆえ一層神秘的なものになった。いつも平然と、何の見返りも求めず、じっとこちらを見ている。それは何の意味さえ持たない。
私は月を見るのが好きだ。その神秘さゆえ、または意味ばかり求めたがる自分への疲労感ゆえ。そこに月が平然と浮かんでいる不思議さは、私達がなぜここにいるのかわからない不思議さを不意に感じさせる。あ、そっか。私達自身平然と生きている不思議さを抱えて生きているのか。ふとそんな風に思うのである。
月だけじゃない。私達は日々多くのものに出会っている。スマホから目を上げれば梅雨、アジサイが咲いているかもしれない。風の匂いが微妙に違うかもしれない。忙しくてゆっくりしていられない、せわしない現代の中できっと多くの豊かさが零れ落ちている。あなたが歩きスマホをしていて、顔を上げれば月が輝いているのにそれに気が付かない。空気が澄んでいることや、月が光っていること、花が咲いていることや、美しい晴れであることは、人が生きていることと同様まったく意味を持たない、不思議なものである。ただそこに気づくことが出来たとき、私の人生は少し豊かになった。
梅雨の晴れ間の夜、私はもうすっかり夏の夜の気分になって、あの小さな頃の夏祭り前のわくわく感を思い出した。そういえば去年は受験勉強が忙しくて行けなかったんだっけ。
ふと思い出す懐かしさも私は好きだ。こうして生きている今も過去になる。あの頃つけた知識も人との約束も過去になっていく。時間は二度と戻らないが、それでも体はしっかりと記憶している。たとえ言葉にならなくても、はっきり思い出せなくても、その時の空気を感じる事が出来る。ただ平然と現れてくるその記憶に、人は何も求めず、はっきりと感動することが出来るのだ。
時間はどんどん過去になる。この憂鬱な日々も、楽しい時間も、きっと過去になっていく。記憶の引き出しを開ける鍵となるのは、実はこのような感覚であったりする。身近なものが新鮮に感じられることや、そこに懐かしい思い出を見つける時、生きている実感があるように思う。
というわけで、大学に入ってから「ぼっち」というネガティブワードをよく耳にするが・・・ぼっち諸君!たまにはぼっちもいいものだ!いつも繋がっているこの世界から、たった一人で投げ出されたときこそ人の視界は開けるはず。何が豊かさなのか、誰を求めているのか、孤独な時にこそ人は探すようになるのだから。
「万有引力とは引き合う孤独の力である*」大丈夫!ぼっちの葛藤はいつか孤高の月の様に煌めくよ・・・とかいってみる。まあ私もぼっちだけどね・・・。
森田 桃子
*谷川俊太郎『二十億光年の孤独』より引用
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