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リッこら

Re:ALL製作委員会は一枚岩ではありません。日々委員どうしが小首を傾げ合いながら 冊子を作っています。彼らは一枚岩というよりはむしろ、ガラクタの山のようです。どんなガラクタが埋まっているのか。とにかく委員それぞれが好きなものを書きたいということで始めたコラム、気が向いたら読んでやって下さい。ひょっとしたら、使えるガラクタがあるかもしれません。

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残飯についての考察


 最近はとても暑いですね。夏ですね。みなさまいかがお過ごしでしょうか。

 悪夢のような受験を乗り越え、合格を知らせる電話を1日3回以上繰り返し聞き、入学式でかわいい女の子をナンパしたけれども気づけばヨッ友になっていて、仲のいい友達は増えず、あれ? 大学ってこんなところなの……? と若干絶望しつつもなんとか意識を高く持とうと努力をしていたのがつい昨日のことのようです。もう数か月が経ってしまったのですね……。今ではそのような生活に良い意味では慣れ、悪い意味ではたるんでいます。合格直後には大学に様々な思いを馳せていました。色々な先生の話を聞いてたくさん勉強しよう! 人もたくさんいるし、きっと友達もたくさんできるよね! 新歓もたくさん行っていろんなサークル入ろう! あわよくば恋人だって………。みなさんご察しのとおり、何一つ叶ったものなどなかったのでした。

 さて、そんな私は7月1日をもちまして新しい肩書をいただきました。それこそが“残飯”というものです。ものすごく失礼な肩書ですよね。ご存知の方も多いと思いますが一応説明させていただくと、ここで私が示した“残飯”というのは大学に入って6月いっぱいまでに恋人ができなかった人のことを指します。主に女子に使われることが多いようです。そんな“残飯”になってしばらく経つわけですが、先日妹が食べ残した白いご飯を見つめながら思ったのです。“残飯”って言葉、使い方間違っていないか……? と。
 そんなわけで辞書を引いてみました。以下、三省堂例解小学国語辞典第三版からの引用です。
ざんぱん【残飯】(名)食べ残したご飯など。  
ということです。小学生向きの辞書ですから単純明快ですね。字面どおりの意味じゃないか、と思う方もいるかもしれません。しかし、少し考えてみてください。私たち残飯は食べ残しなんてされていないのです。だって、箸すらつけられていないのですから。“残飯”ではなく“食わず嫌いされた系女子”のほうが理に適っているのではないかと思うのです。私が心から問いたいのは本当に“残飯”と呼ばれるべき人は、大学に入って6月いっぱいで恋人ができなかった人ではなく、大学に入ってすぐに彼氏ができたけれど6月いっぱいまでに別れた人、ではないかということです。とんだ大学エンジョイ勢ですね!

 では、なぜ食わず嫌いされた系女子が“残飯”と呼ばれるようになったのかということを自分なりに考えてみたのですが、最初にこの言葉を考えた人は恋愛ゲーム的な脳の持ち主なのではないかという結論に達したのです。は? と思われた方、ごもっともです。説明しましょう。
 恋愛ゲームとは字面通りゲーム上で疑似恋愛ができるというものです。男性向けのものはギャルゲー、女性向けのものは乙女ゲーと呼ばれることが多いです。それでは、なぜ“残飯”の名付け親がギャルゲー脳なのか。ギャルゲーでは時間をかければゲーム内の女の子全員と付き合うことができます。言ってしまえば、『全員俺のもの』というわけです。
 例えば、A子ちゃん、B子ちゃん、C子ちゃんという3人の女の子と付き合えるギャルゲーがあるとします。そのゲームを買った男の子は思いました。

「うーん……ツンデレのA子とドジっ子のB子はタイプだけど、クール系のC子はあんまり好きじゃないなあ」

と。そんな男の子はA子ちゃんとB子ちゃんとゲーム内で付き合うことに成功したあと、C子ちゃんには手を出すことはありませんでした。
 この場合『全部俺のもの』であるゲーム全体を定食と置き換えてみましょう。A子ちゃんはご飯、B子ちゃんは味噌汁、C子ちゃんはサバの味噌煮です。男の子はサバの味噌煮が嫌いだったので一切手を付けずに残しました。男の子に必要とされないことによってサバの味噌煮は残飯と呼ばれるようになります。よって、C子ちゃんが残飯と呼ばれることも理解ができます。定食は全部男の子が食べる権利があり、ギャルゲーもそうです。しかし、現実はそう上手くいくわけがありません。日本全国に何十万人という女子大生を全員手に入れることができるという前提がないと“残飯”という言葉に適しているとは言えないのです。もし、本当にそのようなことを思って“残飯”という名前をつけたのならば、その名付け親はとてつもなく傲慢なヤツと言えるわけです。

……と、ここまで“残飯”の不条理さについて書いてきました。これで残飯という言葉が使われるのはおかしいということをわかってくれた人はいるはずです。ごくごく少数ではあるかもしれませんが。しかし、“残飯”はかなり多くの人にマイナスで捉えられるべき言葉だと既に認知されてしまっています。ここで私がどれだけ間違っていると言っても“残飯”がなくなるわけではありません。これからも私は“残飯”という肩書を背負って長い間生活していかなければないのです。屈辱的ですが、受け入れるしかありません。私は“残飯”と世の中から呼ばれるべき美味しくない人間であります。ですが、きっと中には私のようではない“残飯”もいるはずです。食べてみたら本当は美味しい“残飯”だっているはずなのです。食わず嫌いはよくないですよ。

 最後になりますが、ごはん一粒一粒には神様が宿っています。ごはんは残さず食べましょう。


中山 楓子
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