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リッこら

Re:ALL製作委員会は一枚岩ではありません。日々委員どうしが小首を傾げ合いながら 冊子を作っています。彼らは一枚岩というよりはむしろ、ガラクタの山のようです。どんなガラクタが埋まっているのか。とにかく委員それぞれが好きなものを書きたいということで始めたコラム、気が向いたら読んでやって下さい。ひょっとしたら、使えるガラクタがあるかもしれません。

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ズレる

ああ、眠れない。眠れない。寝たい!眠たい!スターのDX。
いつでもどこでも寝ていたいことで有名な私でも、夜中になっても眠れない時がたまにある。
そろそろ寝ないといけないのに眠れない。そのプレッシャーからか余計に眠れなくなってしまう。
そんな時は、なんだか難しい事を考えて眠たくなるようにしている。
例えば、「文化構想学部って何をやっているのか」とか。
とても難しい。ムイムイ難しい。難しいッシモ。
とりあえず「王様の新しい服を着て、幸せの青い鳥を捜しています」とかわしてみる。ぺらっぺらな質問に見合った、張りぼての回答である。
しかし、文構はよく「あそぶんこう」なんて揶揄されるが、そもそも文化というものは形骸化された遊びに他ならないのではないだろうか。遊びこそが文化の構想の知のフロンティアなのだ。とかカッコつけてレポートが書けそうだ。
そんなものは遊びであって勉強ではないと聞こえてきそうである。
でも待てよ、そもそも勉強とはなんなのか。一般的に勉強というと、教科書とノートを使ったあのアレだろうか。黒板に書かれたことをただひたすらノートに転写するアレ。
そういえば大学に入ってから、ほとんどノートというものをとらなくなった。学期初めに鉛筆を持とうとして、持ち方を忘れた、なんてバカ話を聞くが、まことやその比喩が分からないでもないくらいである。
しかし最近は再びノートを意識してとるようにしている。すると、自分がノートをとるのが下手くそだったことを思い出した。ぜんぜん綺麗に書けない。消しては書き直して授業に追いつかない。極めつけに大量の消しカスが発生する。
筆圧が濃いからか、消し方に無駄があるのか、昔から消しカスの多い人間だった。書くときは適当なくせに、見直すときは無駄に完璧主義なせいで、字が下手だから書き直したり、バランスの美しさのために一行全部消してずらして書き直したりする。そしてその結果、いつも大量の消しカスが発生する。
この消しカスこそが勉強なのだと思ったりする。
そんなものはゴミであって勉強ではないと聞こえてきそうである。
思うにタブレット電子書籍がいまいち軌道に乗れていないと感じられるのは、タブレットを使ってノートをとることが普及していないからではないかだろうか。
文化は一方的に受容されるだけでは発展しない。利用者からも発信されるようになった時、文化は軌道に乗って発展を遂げる。インターネットが現在の興隆を見たのも、あるいは写真や、音楽や、そして本だってそうだったはずである。本が、いや書くということが発展したのは、数多くの消しカスが発生したからだと思っている。もちろん昔はインクや墨汁を使っていたから、消しカスは出なかっただろうけど。
中世に書かれた写本を見ていると、整然と並んだ美しい文字に軽く感動する。そういう写本に見とれていると、昔の人はさぞかし慎重に丁寧に文字を書いていたのだろうと思う。
当時の人と比べると今日の私たちはミスし放題だ。ctrl+zの時代である。ctrl+cとctrl+vで論文が書ける時代である。おい、なにをするやめろ。
それはさておき、昔と比べると我々なんぞ人間のクズに違いない。
いや、きっと人間のカスだ。人間のバカだ。人間のクソ野郎。この人間め。
あれ、人間批判になってしまった。
ともかく、昔の人の丁寧さを目の当たりにしたら、今の私たちはクズになってしまった気がするのである。
いや、違う。ここまで言っておいて、そうじゃない気がしてくる。きっと、昔は昔でクズがいたはずである。人間の6割は水である。そして、水は低きに流れる。
現存している至極丁寧な写本。これを描いていた人の中にも、きっと、自分と同じクズみたいな人間がいたに違いないのだ。
厳粛な作業場の中で、誰かインクをぶち撒いてしまう奴がいて、そのせいで200枚くらいの完成していたページが真っ黒になる。半泣きになりながらレッドブル飲んで徹夜で再現する。無駄にした紙を補填するために、「まぁ、バレないっしょ」とか言いながら他の部署からちょっとずつ紙をパクってくる。
うん。絶対にやってる。目に浮かんでくる。圧倒的脳内再生率である。お前は見たのかとツッコまれそうだけど、見てはいない。
いや、見れるわけがない。何千年も前のことである。時間は不可逆なのだ。時間は過去から未来へ流れるのだ。
いや、そうでもない。
過去は現在の結果に過ぎない。未来からやって来た時間が自分の目の前で現在を通り過ぎて過去になる。時間は未来から過去へ流れているのだ。
時間が逆走する。
もしかしたら時間は丸いのではないかと思う。何を言っているんだと思われているだろうが、自分でも意味が解っていない。ただなんとなく漠然と、時間をひたすら進み続けると一周回って帰って来れるのではないか、なんて時間球体説らしきものを考えてみる。明日だって昨日の今日なのだ。ついでに時間は回っているのではないかと、その先の時間地動説みたいなものまで考えてみる。もちろんそんなもの確かめようがない。
結局のところ、我々は、昨日でもなく明日でもなく「いま」を「生きている」だけである。だから「居間」のことを「リビング」と言うのである。
なんだか話が明後日の方へ行ってしまった。頭を使っていたらお腹が空いてきた。眠れない夜の更なる敵は空腹である。いっそのこと食べて満腹になって睡眠に誘えばいいという考えと、こんな時間から食べたら生活リズムの狂いに拍車をかけて明日以降さらに大変なことになるという考えで揺れる。夜食を食べるか食べないか。私の中で意見が飛び交う。
「食べればいいやん。夜食しぃや」
「あかんで食べたら。絶対夜食すんな」
「夜食しぃや」「夜食すんな」「しぃや」「すんな」しーや。すんな。シーア。スンナ。
あらー、やめて!私、ノーと言えないイエスだから。
そうこうしているうちにシーア派は夜食を食べだす。ぱくぱくと食べる。ぱくぱくと食べるが一向にもぐもぐしないので、影に手を伸ばしてもただひたすら空を切るように、私は何だか騙されているような気分になった。
それでも食べているのを見ていると、自分も何か食べたくなってきたので、何があるのだろうかと厨房を覗く。揚げたメンチカツを切ってお皿に盛りつけている。
店員がカツアゲしてる。メンチ切ってる。私はこんな物騒な所にいていられないと走り去る。
一目散に走りながらふと、走るという行為がすごく不思議に思えてきた。
片方の足で地面を踏みつける行為の繰り返しで、つまりは、必殺地球キック百連発状態なのだ。世界中の人がこんなことをしたら、地球の自転に影響を与えるのではないかとすら思えてしまう。それでも地球は回ってる。
走っている時には何の混乱もなく走れているが、冷静に考えてみるととてつもなく難解で、振り出した片足を置くや否や、もう片方の足を振り出し置くや否や、もう片方は前に振り出され、というように、永遠のステップの繰り返しである。
だから、足は置いているというより添えている感じで、それはリアルステップというより、ファントムステップで、このファントムステップの連続で自分が直立できているんだと思うと、もはや小周期でジャンプしているのか、小周期で地面に着陸しているのか分からなくなって、気を引き締めないとこのまま飛んで行ってしまう気がして、頑張って気を引き締めていたのだけれど、不意に上空に核ミサイルが見えたので、気をそらしてしまった私は青空へ飛んで行ってしまった。ただし、空気抵抗は考えないものとする。
ふもとで核爆弾が爆発する。
芸術は爆発だ。
壮絶な景色を前にグリーングリーンが聴こえる。グリーン グリーン 青空には きのこ雲あがり。グリーン グリーン 丘の上には ララ 骨組み残る。
うーん。ダメ、ゼッタイ。核兵器乱用。
それにしても「みらい」のエネルギーが「げんし」力とは言い得て妙である。第四次世界大戦は石と棍棒によって戦われるのだ。創造は破壊の上につくられる。
等速直線運動を続けて大気圏を飛び出し宇宙空間に出た私は、ブラックホールに吸い込まれる。終わりであり始まり。永遠の一瞬。時空が歪む。物理法則が破綻する。ロゴスから解放される。
ル・コルビュジエな私の心は冷たい音で崩れ落ちる。光が止まるその前に、リンクとループで大脱走。ハートとビートがハイタッチ。深まるトリック。連なるトリップ。空前絶後のメルトダウン。
ズレる。ズれル。ずレル。

――目が覚めた。夢だったのか。
知らない間に寝オチしてしまったようだ。ついでに、寝オチから夢オチしてしまったようだ。
このまま二度寝して自分の夢を追いかけてみようかな。
今日が過ぎていく。さやさやと過ぎていく。

(先山周)
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